感情の揺れ方

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劇評:ミュージカル『ドン・ジュアン』

 愛とはなにか?呪いである。このミュージカル『ドン・ジュアン』が描くのはさまざまな愛、それも決して美しいものではない、理性では分かっていても離れられないような、自らを焼き尽くすかのような愛である。日本での初演は2016年に宝塚歌劇団雪組で望海風斗が主演を務め、2019年には初演の演出を担当した生田大和氏が藤ヶ谷太輔を主演に迎えて上演された。そして今回、生田氏と藤ヶ谷太輔が続投し、ヒロインのマリア役を宝塚歌劇団退団後初の舞台出演となる真彩希帆が演じる形で再演されることとなった。

 舞台はスペイン、灼熱と情熱の街セビリア。快楽を追い求め「女と酒だけが俺を救う」と歌うドン・ジュアンはある日、偉大な男として知られる騎士団長の娘までも毒牙にかける。娘を汚された騎士団長は決闘を挑むが、勝ったのはドン・ジュアンだった。しかし騎士団長は亡霊となって彼を呪う。「愛が呪いとなる」と。ドン・ジュアンは導かれるように彫刻家のマリアと出会い、二人は愛し合う。マリアにはラファエルという婚約者がいたが、そんなことは関係がなかった。愛が、愛こそが呪いだからだ。しかし愛とは、狂気でもある。愛の狂気的な側面をこの作中で最も体現しているのは、「自分は彼の婚約者だ」とドン・ジュアンのもとを訪れる修道女エルヴィラだろう。「神の愛」に帰依する彼女もまた彼に魅了された女性のひとりであり、自らが「ドン・ジュアンの妻」となることで彼を「神の愛」に目覚めさせようとする。だが彼女の声は届かない。全く、これっぽっちも届かない。むしろドン・ジュアンがエルヴィラと言葉を交わす場面がほとんど存在しない。宝塚版と大きく違うのは、ドン・ジュアンの「孤独」が強調されている点にある。エルヴィラだけでなく、友であるドン・カルロやイザベルとコミュニケーションを取る場面も多くない。ドン・ジュアンがしっかりと会話をするのはマリアと亡霊、父親くらいである。本当にエルヴィラは婚約者で、カルロは友人なのかという疑問すら浮かんでくるが、彼の「孤独」を打ち破ったのはエルヴィラではなくマリアだった。それはおそらく、ドン・ジュアンが求めていたのは「神の愛」ではなく「母の愛」だったからだろう。名ナンバー「悪の華」で彼は歌う。「神が俺を捨てた」のだと。神を呪い、人を許すことが出来ないドン・ジュアンが「神の愛」を背負うエルヴィラを愛することなど、あるはずがない。マリアの腕に抱かれて眠るドン・ジュアンは愛を知ったが、結局最後まで彼は人を許すことが出来なかった。婚約者がいることを黙っていたマリアのことも、自分にマリアを奪われたラファエルのことも。

 

 ここからは個々の出演者にクローズアップしたい。まずは主役のドン・ジュアンを演じた藤ヶ谷太輔。普段はジャニーズのスターとして活躍する彼のダンスや殺陣、立ち姿には期待以上のものがあった。特に「目」が良い。悪徳の限りを尽くすドン・ジュアンを「目つき」で上手く表現していたように思う。あの「存在感」は流石の一言。マリア役の真彩希帆に関しては─語弊もあるとは思うが─圧倒的と言う他ない。歌、芝居、そもそもの「舞台の上に立つ」ということに関して、圧倒的だった。ともすれば観客からの共感が一切生まれないドン・ジュアン、そしてドン・ジュアンを愛するマリアだが、彼女の演技、表現を通してドン・ジュアンというキャラクターのパーソナリティは何倍にも膨れ上がっている。彼女がそれを可能にしている。退団後初めての舞台出演になる今作だが、おそらく彼女はミュージカルシーンを席捲するだろう。生田大和氏をもってして「私のミューズ」と言わしめる真彩希帆という舞台人のこれからが楽しみで仕方ない。騎士団長とその亡霊を演じた吉野圭吾、「アンダルシアの美女」として圧巻のダンスを披露した上野水香、イザベル役の春野寿美礼のパフォーマンスも素晴らしかった。熟練したそれぞれの技術が、作品全体を締まったものにしていた。ラファエル役の平間壮一がクライマックスの決闘で見せたキレのある殺陣も印象に残っている。物語を動かす鍵を握るエルヴィラを演じたのは天翔愛で、キラリと光るものをうかがわせるのは確かだが、とにかく「拙さ」が目立つ。まだまだこれからという俳優なので、将来に期待したい。ドン・カルロは「あのドン・ジュアンの親友」という難しい役どころで、上口耕平のパフォーマンスもその苦労を感じさせるものだった。すこしクセのある発話、歌唱が印象に残っている。