感情の揺れ方

それでも笑っていたい

劇評:ジョン・ケアード演出『ジェーン・エア』

 ジェーン・エアは引き裂かれている。その内に「分裂」を抱えている。その「分裂」を乗り越え、ジェーンがアイデンティティを手に入れる。それがこのミュージカル『ジェーン・エア』なのだ。

 父と母を亡くし、孤児となったとき。伯母のミセス・リードに引き取られ、ローウッドで「うそつき」のレッテルを貼られたとき。親友のヘレン・バーンズをチフスで失ったとき。ジェーンはその身に「分裂」を抱えることになった。親子という繋がりが断ち切られ、真実の無意味さを知り、「赦し」を教えてくれたヘレンが若くして天国へ旅立った。ジェーンはまさしく「引き裂かれた」が、その「分裂」を表現する演出が印象に残っている。あくまでもジェーンの精神的な、内側の問題である「分裂」を舞台上に、観客が見える形で表現するためにジョン・ケアードは、ジェーンを主体と客体とに分けた。「分裂」させた。換言すれば、「見る」ジェーンと「見られる」ジェーンとに引き裂いたのである。ジェーンが自身の幼少期を語るとき、彼女がその視界に捉えているのはまさしく幼いジェーンその人であり、ヘレンとジェーンの悲劇を正面から見据えるのものまたジェーンその人なのである。そして他の登場人物もずっと、「ジェーンを見るジェーン」を見ている。ジェーン・エアは常に「見られて」いる。コロスのような役割を引き受ける登場人物に、自分自身に。ジェーンが舞台上にほぼ出ずっぱりという点も印象的だ。いやむしろ、舞台袖にはけている時間の方が長い、という演者はいないのではないか。ジェーンはこの物語の主人公であるのに、舞台上に独りとなることはなかった。なかったのだ。この作品を実際に観た人は「いやそんなことはなかった」と、数少ない場面を思い浮かべるかもしれない。しかし、同時に思い出して欲しい。客席から「視線」を送る私たちの視界に、ジェーン・エア以上にずっと映っていた存在がいたはずなのだ。そう、「オンステージシート」の観客である。観客でありながら舞台上に引き上げられた彼らの視線は、各演者と同じレベルでジェーンに注がれる。いや、その客席が上方に設けられていることを考えれば、その視線はどちらかと言えば超越者の視線に近いのかもしれない。ジェーン・エアは常に神的な視線をその身に受けながら「赦すこと」を学び、実践していく。ジョン・ケアード氏の演出は、キリスト教的な意味においても興味深いものがあった。

 各出演者のパフォーマンスも素晴らしかった。ジェーン・エアとヘレン・バーンズはダブルキャスト、しかも役替わりというチャレンジングなものになっている。私が観た上演会は上白石萌音ジェーン・エア、屋比久知奈がヘレン・バーンズだったが、両者の演技、歌唱は力強く、ジェーン・エアを通して原作者シャーロット・ブロンテの生き様や苛烈さを感じさせるに十分なものだった。エドワード・ロチェスターを演じた井上芳雄の立ち居振る舞いは、ある意味支離滅裂な彼の行動にいくらかの説得力を持たせるに足るものだった。春野寿美礼樹里咲穂・仙名彩世・春風ひとみら、宝塚歌劇団OGの面々はさすがの一言。原作小説とは展開に違いが見られたが、その部分の脚色も上手かったように思う。

 コロナ禍に出口が見えてきた(ということになっている、だけだとしても)昨今、演劇業界がこのような素晴らしい作品とともに再び盛り上がってくれることを願ってやまない。

 

劇評:眞鍋卓嗣演出『ドリームガールズ』

 「名曲がひとつでもあればミュージカルは名作となる」なんて言説があるけれど、この作品にその格言は当てはまらないようだった。『ドリームガールズ』。トニー賞グラミー賞を受賞した大ヒットミュージカルで、日本では2006年にビヨンセが主演した映画版の方が有名かもしれない。「ONE NIGHT ONLY」「(AND I AM TELLING YOU) I'M NOT GOING」など数々の名曲は、誰もが聴いたことのあるものだろう。そんな名曲に彩られたこのミュージカルは、しかし名作とは言い難いものだった。

 ミュージカルとコンサート、あるいはリサイタルとの分水嶺と言えばいいのか、端的に言えばどっちつかずの構成だったように思う。もちろんそれぞれのナンバーは素晴らしいし、主演の望海風斗を筆頭とした各演者のパフォーマンスも良かったけれど、歌・楽曲のクオリティと作品全体のクオリティは必ずしも一致するわけではない。むしろ各ナンバーとパフォーマンスに力がありすぎて全体にメリハリがなく、すこし胃もたれしてしまうような感覚があった。惜しい。ものすごく惜しい作品だった。1960年代から1970年代にかけての人種差別や公民権運動、それとかかわるショービジネスの光と影。「ソウル」という言葉に集約される「彼ら」が決して手放すことの出来ない何か。現代日本にも通底するこれらの価値観が、もうすこし真に迫った形で伝われば、この日本オリジナル版はまた違った作品になっていたのではないだろうか。

日々のこと(2022/11/5~)

 早くも2022年が終わろうとしている。西暦2023年という数字への違和感が拭えないのは、新型感染症が流行してから世界が止まったような感覚に陥っているからだろう。加えて今年は生まれてから26年とすこしを過ごした滋賀県を離れ遠く東京で大学院生として独り暮らしを始めた大きな転換を経験した年でもあり、現実感のなさに拍車がかかっている。そう、「現実感のなさ」というのが2022年を通した大きな問題のひとつ。

 2022年を振り返ったところで、書き残すようなことは思い当たらない。修士課程の一年目に出来たことは何もない。小説を書き、新人賞に応募したものの……。一年という短い期間をクローズアップしても、と思ってしまう。2022年を正しく振り返るにはあと10年くらい必要な気がする。15万字ある物語を書ききったという事実は、まだ自信にはつながっていない。

 前回の更新から、特に大きな出来事は起こっていない。本を読み、本を書き。最近は大学の図書館をフルに活用し、シェイクスピアの全集を読み進めている。無論「読み物」としてのおもしろさはあるけれど、やっぱり舞台作品としての人間が声に出す方がおもしろいような気がする。全集も買おうと思えば買える値段ではあるのだが、やっぱり逡巡してしまう。うーむ。とりあえず、大学図書館の『ロミオとジュリエット』をずっと借りている人は早く返却していただけるとありがたいです。

 映画も舞台もほとんど見られていないが、自室で作業をするときのBGMにアニメを流している。この一ヶ月くらいで『ガンダム』シリーズのいわゆる「宇宙世紀」を見た。無印、『Ζ』『ΖΖ』『逆襲のシャア』『UC』『NT』『F91』。見られていない劇場版も多いけれど、だいたいは見ましたと言えるくらいには見た。聞いたことだけはあるセリフの数々に本来の文脈に即した正しい形で触れることができて良かった。コピペで骨抜きになった文字列……。好きなのは『Ζ』。カミーユ……。なんというか戦争に参加せざるをえない少年兵のドキュメンタリーを見ているような気持ちになる。それはシリーズを貫いているものだと思うけれど。書く者の端くれとして、いかに「反戦」と向き合うのかなんてことを考えたりする。

 noteの方はぼちぼち更新している。食べたものをまとめているだけなので、急にぱったりとやめてしまうかもしれない。カクヨムも更新した。年末なので。帰省先で思ったよりやることなくて暇だなーと思ったら、読んでください。暇じゃなくても読んでください。

kakuyomu.jp

kakuyomu.jp

note.com

 2023年の目標はとりあえず「修論を書く」にしておきます。正直、他のことは何もわかりません。それではみなさん、よいお年をお迎えください。

 

 

2022年の観劇生活を振り返る

maholo2611.hatenablog.com

 

 2022年、このエントリーの結びで述べた願いは残念ながら達成されず、新型感染症は収まることなく舞台演劇、動員系エンタメの脅威となったままです。宝塚歌劇団も長期に渡る休演があり、その他劇場で上演されるはずだった演目が中止となることも多々ありました。正直なところ、事態は何も改善されていません。同じ周期で感染症数が上昇し、カンパニーに感染者が出てしまい、上演が中止になるというサイクルの繰り返しで、演者も観客も、いや関係するすべての人々が先の見えない長いトンネルを歩いているような感覚なのではないでしょうか。

 今年は個人的にも上京という大きな環境の変化があり、観劇回数も大幅に減ってしまいました。それでも、その中から2022年のマイベスト(順不同)を振り返っていきたいと思います。ライブ中継でしか見られなかった作品は省くため、対象となる作品がそもそも少ないのですが……。

 

宙組公演『NEVER SAY GOODBYE』

 和央ようかの退団作品として有名なこのミュージカルがついに再演されました。1960年代のヨーロッパ情勢と、2022年の国際情勢とがここまで相似するのかという感想がまずあります。どうやって作品が受け止められるのかも変化する中で、真風涼帆というトップスターは円熟味を増し、潤花というトップ娘役も大きな躍進を見せていました。

maholo2611.hatenablog.com

 

月組公演『グレート・ギャツビー』

 月城かなとの凄み。「男役は背中で語る」という格言が宝塚にはあるものの、ここまで雄弁に「美」を語る沈黙の背中があっただろうか。若手の頃から芝居巧者ではあったものの、月城かなとは今やある種の到達点に届きつつあると思わせるほどの作品でした。

maholo2611.hatenablog.com

 

③上村聡史演出『ガラスの動物園

 岡田将生もさることながら、ローラ・ウィングフィールドを演じた倉科カナが非常に印象に残っている。彼女の演技を生で見るのはこれが初めてで、もっともっと見てみたいと思わせるものでした。

maholo2611.hatenablog.com

 

 以上となります。月組の『今夜、ロマンス劇場で』やマイケル・アーデン演出『ガイズ&ドールズ』も加えるか悩みましたが、個人的にはこの3作品が好きでした。宝塚のショー作品はほとんど生で見ることが出来ていないので、今年はそもそも選出せずという形に。東京宝塚劇場は本当にチケットが当たらないなと思うんですが、みなさんはどうでしょうか……。

 2023年は、いや2023年こそ、すべての人々が穏やかに過ごせるような世界が取り戻されることを願って、結びとします。

 

 

 

 

 

 

 

日々のこと(2022/09/15~)

 最低でも一ヶ月に一回のペースで更新しようと思っていたこの「日々のこと」シリーズだったのに、あっという間に二ヶ月近い空白を生むこととなってしまった。忙しさにかまけている。アルバイトと研究、執筆の三本柱。いや「生活」を加えた四本柱でどうにかやっているけれど、すでに破綻しているような気もする。「生活」には色々な余暇も含まれていて、観劇だったり外食だったり、なるべくこの「東京」を楽しむつもりではいるのだ。精神をそこまで引っ張り上げられるかどうかは別問題としても。前回の更新からは『モダン・ミリー』と『グレート・ギャツビー』を劇場で、宙組公演『ハイアンドロー』を映画館のライブ中継で見た。創作意欲を刺激されて、またペンに手を伸ばす。講談社発行の「小説現代」が主催する長編新人賞に応募をして、一次選考を通過することが出来たのは、僥倖と言う他ない。それはそれとして、めちゃくちゃに悔しい。二次選考も通過したかった。二次選考だって三次選考だって、最終選考だって通過したかった。大賞を受賞したかった。寝首を搔かれそうな孤独の中で、また書かなければならない。そう決めたのだ。

maholo2611.hatenablog.com

maholo2611.hatenablog.com

note.com

 大学院は後期の講義が始まった。前期は週に五日通学しなければならなかったけれど、あんなことになってしまった反省をいかして二日まで減らすことにした。それでも不思議なことに忙しさは変わらない。正直なところ、毎日泣きそうになりながら生活を重ねている。体重は変わらない。一番減っていたときと比べればいくらか改善されてはいるものの、BMIには目も当てられない。精神状態は肉体の状態に左右されると頭で理解していたことが、それこそ肉体のレベルで分かってきた。これはもう、今の自分の力ではどうすることもできない。もっと頑張るしかないのだ。東京まで観劇に来た両親と久しぶりに会ったときは本当にホッとした。一次選考通過を伝えられたときは肩の力をほんのすこしだけ抜くことが出来た。でも今はもう、バッキバキだ。

 体調の話はこれくらいにして、芸術の秋ということもあるので、最近行った美術館や博物館の話でもしようと思う。丸の内に移転した静嘉堂文庫美術館には国宝の「曜変天目」を、渋谷の松涛美術館には「異性装の歴史展」を見に行った。

館内の写真、なし

数年ぶりの松涛美術館

 曜変天目はあの妖しげな美しさが好きで、展覧会があると見に行ってしまう。数年前に滋賀県のMIHOミュージアムで公開されたときも車を走らせた。国内には国宝として登録されている曜変天目が三つあり、これでそのうちの二つを見たことになる。国宝はあとひとつ、国宝には登録されていないものがあと一つ。いつか全部見るぞという気持ち。「異性装展」の方は宝塚歌劇ファンとして見に行かない手はないだろうと思い、朝一で渋谷に。古事記日本書紀に始まり、現代のドラアグクイーンまで、「装いの力」で性別を超えんとする営みにフィーチャーした展示は非常に面白かった。「説教臭い」という感想を事前にTwitterで見かけていたのでそこは不安だったけれど、杞憂だった。むしろあの展示を「説教臭い」と感じる人は……。「装い」が好きだ。プロダクトとしての衣服も好きだし、さまざまな表現としての衣服─つまりそれが「装い」なのだと思う─も好きだ。好きな服を好きなように着られるのなら、それはきっと幸せなことだ。丸の内にしろ松涛にしろ、歩いているといろいろなことを思う。丸の内から日比谷にかけては今の自分では手が届かないものに溢れていて、陳腐な言い方をすればハングリー精神が嫌でも刺激される。もっと頑張らなければと思う。松涛は渋谷から数分歩いただけとは思えない静かさに満ちていて、東京という街の仕組みを感じさせる。マンパワーマンパワーシティ、東京。

maholo2611.hatenablog.com

 だいたいこんなところだろうか。2022年もあっという間に残り二ヶ月を切った。一体どうすればいいのだろうという気持ちは日に日に強くなっていくけれど、頑張るしかない。とりあえず、もうすこし外食を増やしたい。「東京を楽しむ」をテーマに。笑ってしまうような目標。10月に食べたものはnoteにまとめているので、それを引用して今回の「日々のこと」は終わりとします。バーガークラブトウキョーをよろしく。

note.com

 

 

感想:月組公演『グレート・ギャツビー』

 美しいものを見て自然と涙がこぼれるという経験をしたことはあるが──太陽を反射する春先の通り雨、エル・グレコがキャンバスに刻んだ騎士の忠誠、オナガドリのはく製──舞台に立つ人間の、それも、ただスポットライトを反射する後ろ姿を見てその美しさに涙するという経験は初めてだった。舞台人として、男役として、トップスターとして、月城かなとはその境地に立っている。

「私がギャツビーです」

 冒頭、ウェスト・エッグの邸宅で毎週末に開かれるパーティの場面。禁酒法を気にもかけない面々をかきわけて現れる屋敷の主ジェイ・ギャツビー。完璧と言っていいほどの立ち姿と発話に、それを引き立てる演出。2008年の日生劇場公演は組子全員が出演していたわけではなく、迫力を前面に押し出すような演出は目立たなかったが、今回は本公演ということもあってより派手な、あの時代特有の喧騒に引き込まれる。その中にあって嫌に落ち着いた、それでいて不穏な雰囲気を抱えるギャツビー。誰もが知っている『グレート・ギャツビー』が舞台に再現されるのだ。

「ささやきとシャンペンと星に囲まれ、蛾のように飛びかった」

              ──『グレート・ギャツビー』より

 1920年アメリカ、狂騒のジャズ・エイジ。ニューヨーク郊外の新興住宅地ウェストエッグに、謎の資産家ジェイ・ギャツビー(月城かなと)の住む大邸宅があった。そこでは誰でも自由に参加できるパーティが開かれ、禁酒法下にもかかわらず各界の著名人──警視総監までもが──シャンパンとワインに溺れていたが、歌い踊る客の誰一人、ギャツビーの正体を知らなかった。ギャツビー邸の隣にある小さな家に引っ越してきたニック・キャラウェイ(風間柚乃)はその様子に驚いきつつ、宴が終わった朝、庭続きの突堤にたたずみ対岸を見つめるギャツビーその人に声をかける。向こう岸のイースト・エッグに誰かいるのか。そう問われたギャツビーは「永遠の恋人」が住んでいるのだと答える。ニックはそれを聞き、イースト・エッグには又いとこのデイジー・ブキャナン(海乃美月)と、その夫で大学の同窓生トム・ブキャナン(鳳月杏)が住んでいることを明かす。ギャツビーの顔色が変わる……。デイジーこそ、ギャツビーが胸に秘め続けた「永遠の恋人」その人だったのだ。二人の間を繋ぐものをようやく見つけたギャツビーは心を震わせる。

   

 この作品は叶わぬ愛の物語であると同時に、果たせぬアメリカン・ドリームの物語でもある。デイジーの両親に娘との交際を拒否されたのち、ときに危ない橋も渡って巨万の富を築き上げたギャツビーは「叩き上げの立身出世」の象徴であり、アメリカ独立以前から続く家系のデイジー、そしてトムは「由緒正しい家柄」「アメリカの貴族」の象徴である。イースト・エッグとウェスト・エッグの間が入り江で隔てられているのは、ギャツビーとブキャナン一家の間に決して超えられないものがあることのメタファーであり──この空間的な広がりを持ったコントラストが作品を重厚なものとしている。デイジーとギャツビー、そしてトムとギャツビー。対比される人物の中にあって興味深いのは、やはり「灰の谷」の描写とジョージ・ウィルソン(光月るう)の存在だろう。「灰の谷」はロングアイランドからマンハッタンへ向かう途中にある、空き地兼ゴミ処理場のような土地で、ジョージはそこでガレージ業を営みながら妻のマートル(天紫珠李)と暮らしている。マートルはトムの愛人の一人であり、ジョージはそのことに薄々勘づきながら、二人でカリフォルニアには引っ越す計画を立てている。イースト・エッグが古い価値観や家柄の、ウェスト・エッグが活力と新しい富の象徴であるなら、「灰の谷」は不倫や貧困、そして死の象徴だろう。「金で願い事を叶えた街」ニューヨークとウェスト・エッグを繋ぐ「灰の谷」はつまり、地続きの存在なのだ。すると悲劇的な結末を迎えるこの物語にあって、ギャツビーとジョージの間には相似の関係が見えてくる。愛し合いながらも報われぬギャツビーとデイジー、マートルへの届かぬ愛に苦しむジョージ。富を築き上げたギャツビーと、引っ越しの費用すらトムに頼るしかないジョージ。表面上は対照的な二人だが、彼らはともに「持たざる者」なのだ。二人を繋ぐ、「持たざる者」の狂気。対岸に輝く緑の灯を眺めるギャツビーと、眼科の看板に神の眼を見るジョージとの間に、一体どんな違いがある?神の眼に眼鏡がかけられているのは、結局人々が本当のことを何も見ていないことのメタファーなのだ。

『神は見ている 人が何をしたのか

 正しい者と間違った者の

 違いを正しく 知っている

 神の眼は誤魔化せない 欺けはしない』

     ──「神は見ている」より

 ここからは各出演者に焦点を合わせたい。月城かなと・海乃美月についてはもはや言うことがないのだが──やはりスコット・フィッツジェラルド作品の中に生きるのが上手い。いやむしろこの二人のいるところがフィッツジェラルドの世界になると言った方が適切かもしれない。彼こそがギャツビーであり、彼女こそがデイジー。ラストシーン、ギャツビーの墓に薔薇を手向けるデイジーの抑制された表現力には引き込まれる。トム・ブキャナンという、いわば悪役を担う鳳月杏の演技には円熟味があった。「アメリカの貴族」という存在の鼻持ちならなさをしっかりと抽出している。そしてニックを演じた風間柚乃は頼もしくなってきた。もともと芝居巧者ではあるものの、若さを感じさせないパフォーマンス。そしてプロゴルファーのニックの恋人になるジョーダン・ベイカー役の彩みちるは組替え以来一皮も二皮も向けた印象があるが、今回もタフな役どころを演じきっていたように思う。娘役で言うなら、天紫珠李も今までとは違う魅力を光らせていた。ギャツビーの仕事仲間でアウトローの一人ウルフシェイムを演じた輝月ゆうまと、ギャツビーの父親を演じた英真なおきはこれこそ専科という立ち姿、演技力。アウトローの面々で言えば、スレイグル役の蓮つかさはいわゆる「クズ」ながら常に清潔感を漂わせていて良かった。そしてやはり、ジョージを演じた光月るうのパフォーマンスがなければ、この作品はここまで素晴らしいものにはならなかっただろう。あの「狂気」。同じく「持たざる者」であるギャツビーとは違った種類の「狂気」を身に纏い、眼下の看板に神を見る──見るだけではなく、果てには神の代わりを務める「狂気」。出演者全員の代表作と言っていいほどの傑作。世界的名作をミュージカルに仕上げる小池修一郎氏の手腕にも拍手を送りたい。

 

劇評:小林香演出『モダン・ミリー』

「ニューヨークに生まれることは誰でも出来るわ。でもここへ来るには、勇気と想像力がいる」

 「越境」が大きなテーマのひとつとなっている『モダン・ミリー』という作品の中にあって、もっとも印象的かつ作品そのものを端的に表現しているセリフはこの一節だろう。マジー・ヴァン・ホスミア(保坂知寿)──マンハッタンのペントハウスに居を構える歌姫──が、モダン・ガールに憧れてカンザスからニューヨークにやってきたミリー・ディルモント(朝夏まなと)に、自分も田舎からここに出てきたのだと打ち明ける中で紡がれる言葉ではあるが、しかし『モダン・ミリー』で描かれる「越境」は何も物理的なそれに限定されるものではない。無一文なのであって決して貧乏ではないミリーとミス・ドロシー・ブラウン(実咲凜音)との友情。ミリーの目標はボスと結婚して「上昇」すること。ミリーがニューヨークで最初に出会った人間であるジミー・スミス(中河内雅貴)と、そしてドロシーにもある「境界」を越えて、やらなければならないことがあった。ミセス・ミアーズ(一路真輝)のホテルは「越境」のモチーフで満たされている。それぞれが借りる部屋、タップを踏まなければ動かないエレベーター。なによりミセス・ミアーズこそが「越境」のネガティブな側面を担う存在でもある。ミアーズが下宿を経営しているのは、夢を追いかけてニューヨークにやってきた身寄りのない女優志望の若者たちを眠らせて、アジアへ売り飛ばすためなのだ。マジーとミアーズとの間にあるこの対比は素晴らしい。「越境」のモチーフは舞台セットにも見て取れる。ときにマジーの住むペントハウス、ときにミリーの働くオフィスビルとなるセットは三つのフロアが階段と梯子で垂直に繋がれたような形になっていて、各フロアをそれぞれの人物が縦横無尽に動き回る。特にミリーは無一文の間は一番下に、トレヴァー・グレイドン(廣瀬友祐)に実力を認められ働きだしてからは一番上に。ジミーとの関係が進展していくにつれ、二人が立つ場所も上へ移動していく。それぞれが自らの殻を破り、今まで知らなかった世界に足を踏み入れ、そこで新たな人と出会い、手を取り合う。いささかパワフルなミュージカルではあるが、それを破綻させずにエンディングを迎えることが出来ているのは各演者の技量と演出家の指揮のなせる技だろう。未だ悲しいニュースの多い演劇界にあって、観客を幸せな気分にさせてくれる作品だった。

   

 ここからは各演者に焦点を絞っていきたい。まずは主演の朝夏まなと。やはり舞台で見せる存在感には別格のものがある。持って生まれた、いや鍛え抜かれた華。『マイ・フェア・レディ』を経てさらに磨かれたような印象を受ける。そしてコメディ作品との相性は抜群。あの端正な佇まいが布石となっていて、笑いに必要な緩和、ギャップを生み出すのが上手い。中河内雅貴ジミー・スミスは正直なところ、第一幕を見る限りでは存在感が薄いというか、他の人物に食われているなと感じたものの、そこに彼の俳優としての上手さがあった。存在感の消し方が巧みで、ジミーというキャラクターをこの脚本の中で成立させるための表現が的確。ミス・ドロシー役の実咲凜音は面目躍如といったところ。浮世離れした雰囲気を身にまとっているのが立っているだけで分かる。その空気感で観客の見る目をくらませるというか、中河内と同じく結末に対するアプローチが上手い。トレヴァーと出会って恋に落ちる場面で見せたダンスも素晴らしかった。もちろんそのトレヴァーを演じた廣瀬友祐のパフォーマンスも見事。大袈裟なまでの身体表現がうるさくならないのは彼の実力がなせる技だろう。エンディングを迎えてなお「トレヴァー、頑張れ」と観客にキャラクターのその後を思わせることが出来る俳優というのは、そう多くない。脇を支えていたのは保坂知寿一路真輝。この二人が現れると雰囲気が変わって作品がグッと締まると言えばいいのか、取っ散らかって脱線しそうな空気感をしっかりと繋ぎとめてくれるような懐の深さがあった。かたや唯一と言っていい悪役、かたや謎めいたスター。この二人がほころぶと作品そのものが崩れてしまうという難しい役どころながら、そのパフォーマンスには素晴らしいものがあった。もちろん歌唱シーンは流石の一言。

 歌・ダンス・芝居、ミュージカルの醍醐味を観客に堪能させつつ、見た後には晴れやかな気持ちになる作品『モダン・ミリー』。人と人との触れ合いに大きな障害がつきまとうこの時代にあって、それでも自分の殻や枠を破って誰かの手を取ることの大切さを感じさせるミュージカルだった。