感情の揺れ方

それでも笑っていたい

日々のこと(2022/09/15~)

 最低でも一ヶ月に一回のペースで更新しようと思っていたこの「日々のこと」シリーズだったのに、あっという間に二ヶ月近い空白を生むこととなってしまった。忙しさにかまけている。アルバイトと研究、執筆の三本柱。いや「生活」を加えた四本柱でどうにかやっているけれど、すでに破綻しているような気もする。「生活」には色々な余暇も含まれていて、観劇だったり外食だったり、なるべくこの「東京」を楽しむつもりではいるのだ。精神をそこまで引っ張り上げられるかどうかは別問題としても。前回の更新からは『モダン・ミリー』と『グレート・ギャツビー』を劇場で、宙組公演『ハイアンドロー』を映画館のライブ中継で見た。創作意欲を刺激されて、またペンに手を伸ばす。講談社発行の「小説現代」が主催する長編新人賞に応募をして、一次選考を通過することが出来たのは、僥倖と言う他ない。それはそれとして、めちゃくちゃに悔しい。二次選考も通過したかった。二次選考だって三次選考だって、最終選考だって通過したかった。大賞を受賞したかった。寝首を搔かれそうな孤独の中で、また書かなければならない。そう決めたのだ。

maholo2611.hatenablog.com

maholo2611.hatenablog.com

note.com

 大学院は後期の講義が始まった。前期は週に五日通学しなければならなかったけれど、あんなことになってしまった反省をいかして二日まで減らすことにした。それでも不思議なことに忙しさは変わらない。正直なところ、毎日泣きそうになりながら生活を重ねている。体重は変わらない。一番減っていたときと比べればいくらか改善されてはいるものの、BMIには目も当てられない。精神状態は肉体の状態に左右されると頭で理解していたことが、それこそ肉体のレベルで分かってきた。これはもう、今の自分の力ではどうすることもできない。もっと頑張るしかないのだ。東京まで観劇に来た両親と久しぶりに会ったときは本当にホッとした。一次選考通過を伝えられたときは肩の力をほんのすこしだけ抜くことが出来た。でも今はもう、バッキバキだ。

 体調の話はこれくらいにして、芸術の秋ということもあるので、最近行った美術館や博物館の話でもしようと思う。丸の内に移転した静嘉堂文庫美術館には国宝の「曜変天目」を、渋谷の松涛美術館には「異性装の歴史展」を見に行った。

館内の写真、なし

数年ぶりの松涛美術館

 曜変天目はあの妖しげな美しさが好きで、展覧会があると見に行ってしまう。数年前に滋賀県のMIHOミュージアムで公開されたときも車を走らせた。国内には国宝として登録されている曜変天目が三つあり、これでそのうちの二つを見たことになる。国宝はあとひとつ、国宝には登録されていないものがあと一つ。いつか全部見るぞという気持ち。「異性装展」の方は宝塚歌劇ファンとして見に行かない手はないだろうと思い、朝一で渋谷に。古事記日本書紀に始まり、現代のドラアグクイーンまで、「装いの力」で性別を超えんとする営みにフィーチャーした展示は非常に面白かった。「説教臭い」という感想を事前にTwitterで見かけていたのでそこは不安だったけれど、杞憂だった。むしろあの展示を「説教臭い」と感じる人は……。「装い」が好きだ。プロダクトとしての衣服も好きだし、さまざまな表現としての衣服─つまりそれが「装い」なのだと思う─も好きだ。好きな服を好きなように着られるのなら、それはきっと幸せなことだ。丸の内にしろ松涛にしろ、歩いているといろいろなことを思う。丸の内から日比谷にかけては今の自分では手が届かないものに溢れていて、陳腐な言い方をすればハングリー精神が嫌でも刺激される。もっと頑張らなければと思う。松涛は渋谷から数分歩いただけとは思えない静かさに満ちていて、東京という街の仕組みを感じさせる。マンパワーマンパワーシティ、東京。

maholo2611.hatenablog.com

 だいたいこんなところだろうか。2022年もあっという間に残り二ヶ月を切った。一体どうすればいいのだろうという気持ちは日に日に強くなっていくけれど、頑張るしかない。とりあえず、もうすこし外食を増やしたい。「東京を楽しむ」をテーマに。笑ってしまうような目標。10月に食べたものはnoteにまとめているので、それを引用して今回の「日々のこと」は終わりとします。バーガークラブトウキョーをよろしく。

note.com

 

 

感想:月組公演『グレート・ギャツビー』

 美しいものを見て自然と涙がこぼれるという経験をしたことはあるが──太陽を反射する春先の通り雨、エル・グレコがキャンバスに刻んだ騎士の忠誠、オナガドリのはく製──舞台に立つ人間の、それも、ただスポットライトを反射する後ろ姿を見てその美しさに涙するという経験は初めてだった。舞台人として、男役として、トップスターとして、月城かなとはその境地に立っている。

「私がギャツビーです」

 冒頭、ウェスト・エッグの邸宅で毎週末に開かれるパーティの場面。禁酒法を気にもかけない面々をかきわけて現れる屋敷の主ジェイ・ギャツビー。完璧と言っていいほどの立ち姿と発話に、それを引き立てる演出。2008年の日生劇場公演は組子全員が出演していたわけではなく、迫力を前面に押し出すような演出は目立たなかったが、今回は本公演ということもあってより派手な、あの時代特有の喧騒に引き込まれる。その中にあって嫌に落ち着いた、それでいて不穏な雰囲気を抱えるギャツビー。誰もが知っている『グレート・ギャツビー』が舞台に再現されるのだ。

「ささやきとシャンペンと星に囲まれ、蛾のように飛びかった」

              ──『グレート・ギャツビー』より

 1920年アメリカ、狂騒のジャズ・エイジ。ニューヨーク郊外の新興住宅地ウェストエッグに、謎の資産家ジェイ・ギャツビー(月城かなと)の住む大邸宅があった。そこでは誰でも自由に参加できるパーティが開かれ、禁酒法下にもかかわらず各界の著名人──警視総監までもが──シャンパンとワインに溺れていたが、歌い踊る客の誰一人、ギャツビーの正体を知らなかった。ギャツビー邸の隣にある小さな家に引っ越してきたニック・キャラウェイ(風間柚乃)はその様子に驚いきつつ、宴が終わった朝、庭続きの突堤にたたずみ対岸を見つめるギャツビーその人に声をかける。向こう岸のイースト・エッグに誰かいるのか。そう問われたギャツビーは「永遠の恋人」が住んでいるのだと答える。ニックはそれを聞き、イースト・エッグには又いとこのデイジー・ブキャナン(海乃美月)と、その夫で大学の同窓生トム・ブキャナン(鳳月杏)が住んでいることを明かす。ギャツビーの顔色が変わる……。デイジーこそ、ギャツビーが胸に秘め続けた「永遠の恋人」その人だったのだ。二人の間を繋ぐものをようやく見つけたギャツビーは心を震わせる。

   

 この作品は叶わぬ愛の物語であると同時に、果たせぬアメリカン・ドリームの物語でもある。デイジーの両親に娘との交際を拒否されたのち、ときに危ない橋も渡って巨万の富を築き上げたギャツビーは「叩き上げの立身出世」の象徴であり、アメリカ独立以前から続く家系のデイジー、そしてトムは「由緒正しい家柄」「アメリカの貴族」の象徴である。イースト・エッグとウェスト・エッグの間が入り江で隔てられているのは、ギャツビーとブキャナン一家の間に決して超えられないものがあることのメタファーであり──この空間的な広がりを持ったコントラストが作品を重厚なものとしている。デイジーとギャツビー、そしてトムとギャツビー。対比される人物の中にあって興味深いのは、やはり「灰の谷」の描写とジョージ・ウィルソン(光月るう)の存在だろう。「灰の谷」はロングアイランドからマンハッタンへ向かう途中にある、空き地兼ゴミ処理場のような土地で、ジョージはそこでガレージ業を営みながら妻のマートル(天紫珠李)と暮らしている。マートルはトムの愛人の一人であり、ジョージはそのことに薄々勘づきながら、二人でカリフォルニアには引っ越す計画を立てている。イースト・エッグが古い価値観や家柄の、ウェスト・エッグが活力と新しい富の象徴であるなら、「灰の谷」は不倫や貧困、そして死の象徴だろう。「金で願い事を叶えた街」ニューヨークとウェスト・エッグを繋ぐ「灰の谷」はつまり、地続きの存在なのだ。すると悲劇的な結末を迎えるこの物語にあって、ギャツビーとジョージの間には相似の関係が見えてくる。愛し合いながらも報われぬギャツビーとデイジー、マートルへの届かぬ愛に苦しむジョージ。富を築き上げたギャツビーと、引っ越しの費用すらトムに頼るしかないジョージ。表面上は対照的な二人だが、彼らはともに「持たざる者」なのだ。二人を繋ぐ、「持たざる者」の狂気。対岸に輝く緑の灯を眺めるギャツビーと、眼科の看板に神の眼を見るジョージとの間に、一体どんな違いがある?神の眼に眼鏡がかけられているのは、結局人々が本当のことを何も見ていないことのメタファーなのだ。

『神は見ている 人が何をしたのか

 正しい者と間違った者の

 違いを正しく 知っている

 神の眼は誤魔化せない 欺けはしない』

     ──「神は見ている」より

 ここからは各出演者に焦点を合わせたい。月城かなと・海乃美月についてはもはや言うことがないのだが──やはりスコット・フィッツジェラルド作品の中に生きるのが上手い。いやむしろこの二人のいるところがフィッツジェラルドの世界になると言った方が適切かもしれない。彼こそがギャツビーであり、彼女こそがデイジー。ラストシーン、ギャツビーの墓に薔薇を手向けるデイジーの抑制された表現力には引き込まれる。トム・ブキャナンという、いわば悪役を担う鳳月杏の演技には円熟味があった。「アメリカの貴族」という存在の鼻持ちならなさをしっかりと抽出している。そしてニックを演じた風間柚乃は頼もしくなってきた。もともと芝居巧者ではあるものの、若さを感じさせないパフォーマンス。そしてプロゴルファーのニックの恋人になるジョーダン・ベイカー役の彩みちるは組替え以来一皮も二皮も向けた印象があるが、今回もタフな役どころを演じきっていたように思う。娘役で言うなら、天紫珠李も今までとは違う魅力を光らせていた。ギャツビーの仕事仲間でアウトローの一人ウルフシェイムを演じた輝月ゆうまと、ギャツビーの父親を演じた英真なおきはこれこそ専科という立ち姿、演技力。アウトローの面々で言えば、スレイグル役の蓮つかさはいわゆる「クズ」ながら常に清潔感を漂わせていて良かった。そしてやはり、ジョージを演じた光月るうのパフォーマンスがなければ、この作品はここまで素晴らしいものにはならなかっただろう。あの「狂気」。同じく「持たざる者」であるギャツビーとは違った種類の「狂気」を身に纏い、眼下の看板に神を見る──見るだけではなく、果てには神の代わりを務める「狂気」。出演者全員の代表作と言っていいほどの傑作。世界的名作をミュージカルに仕上げる小池修一郎氏の手腕にも拍手を送りたい。

 

劇評:小林香演出『モダン・ミリー』

「ニューヨークに生まれることは誰でも出来るわ。でもここへ来るには、勇気と想像力がいる」

 「越境」が大きなテーマのひとつとなっている『モダン・ミリー』という作品の中にあって、もっとも印象的かつ作品そのものを端的に表現しているセリフはこの一節だろう。マジー・ヴァン・ホスミア(保坂知寿)──マンハッタンのペントハウスに居を構える歌姫──が、モダン・ガールに憧れてカンザスからニューヨークにやってきたミリー・ディルモント(朝夏まなと)に、自分も田舎からここに出てきたのだと打ち明ける中で紡がれる言葉ではあるが、しかし『モダン・ミリー』で描かれる「越境」は何も物理的なそれに限定されるものではない。無一文なのであって決して貧乏ではないミリーとミス・ドロシー・ブラウン(実咲凜音)との友情。ミリーの目標はボスと結婚して「上昇」すること。ミリーがニューヨークで最初に出会った人間であるジミー・スミス(中河内雅貴)と、そしてドロシーにもある「境界」を越えて、やらなければならないことがあった。ミセス・ミアーズ(一路真輝)のホテルは「越境」のモチーフで満たされている。それぞれが借りる部屋、タップを踏まなければ動かないエレベーター。なによりミセス・ミアーズこそが「越境」のネガティブな側面を担う存在でもある。ミアーズが下宿を経営しているのは、夢を追いかけてニューヨークにやってきた身寄りのない女優志望の若者たちを眠らせて、アジアへ売り飛ばすためなのだ。マジーとミアーズとの間にあるこの対比は素晴らしい。「越境」のモチーフは舞台セットにも見て取れる。ときにマジーの住むペントハウス、ときにミリーの働くオフィスビルとなるセットは三つのフロアが階段と梯子で垂直に繋がれたような形になっていて、各フロアをそれぞれの人物が縦横無尽に動き回る。特にミリーは無一文の間は一番下に、トレヴァー・グレイドン(廣瀬友祐)に実力を認められ働きだしてからは一番上に。ジミーとの関係が進展していくにつれ、二人が立つ場所も上へ移動していく。それぞれが自らの殻を破り、今まで知らなかった世界に足を踏み入れ、そこで新たな人と出会い、手を取り合う。いささかパワフルなミュージカルではあるが、それを破綻させずにエンディングを迎えることが出来ているのは各演者の技量と演出家の指揮のなせる技だろう。未だ悲しいニュースの多い演劇界にあって、観客を幸せな気分にさせてくれる作品だった。

   

 ここからは各演者に焦点を絞っていきたい。まずは主演の朝夏まなと。やはり舞台で見せる存在感には別格のものがある。持って生まれた、いや鍛え抜かれた華。『マイ・フェア・レディ』を経てさらに磨かれたような印象を受ける。そしてコメディ作品との相性は抜群。あの端正な佇まいが布石となっていて、笑いに必要な緩和、ギャップを生み出すのが上手い。中河内雅貴ジミー・スミスは正直なところ、第一幕を見る限りでは存在感が薄いというか、他の人物に食われているなと感じたものの、そこに彼の俳優としての上手さがあった。存在感の消し方が巧みで、ジミーというキャラクターをこの脚本の中で成立させるための表現が的確。ミス・ドロシー役の実咲凜音は面目躍如といったところ。浮世離れした雰囲気を身にまとっているのが立っているだけで分かる。その空気感で観客の見る目をくらませるというか、中河内と同じく結末に対するアプローチが上手い。トレヴァーと出会って恋に落ちる場面で見せたダンスも素晴らしかった。もちろんそのトレヴァーを演じた廣瀬友祐のパフォーマンスも見事。大袈裟なまでの身体表現がうるさくならないのは彼の実力がなせる技だろう。エンディングを迎えてなお「トレヴァー、頑張れ」と観客にキャラクターのその後を思わせることが出来る俳優というのは、そう多くない。脇を支えていたのは保坂知寿一路真輝。この二人が現れると雰囲気が変わって作品がグッと締まると言えばいいのか、取っ散らかって脱線しそうな空気感をしっかりと繋ぎとめてくれるような懐の深さがあった。かたや唯一と言っていい悪役、かたや謎めいたスター。この二人がほころぶと作品そのものが崩れてしまうという難しい役どころながら、そのパフォーマンスには素晴らしいものがあった。もちろん歌唱シーンは流石の一言。

 歌・ダンス・芝居、ミュージカルの醍醐味を観客に堪能させつつ、見た後には晴れやかな気持ちになる作品『モダン・ミリー』。人と人との触れ合いに大きな障害がつきまとうこの時代にあって、それでも自分の殻や枠を破って誰かの手を取ることの大切さを感じさせるミュージカルだった。

 

日々のこと(2022/08/15~)

感染症と孤独による不調

 東京に来てから半年が経った。まだ自分がこの街にフィットしているという感覚はない。いつかここが自分の街ですと、躊躇いなく滑らかに言える日が来るのだろうか。何かを為すのが先か、しっぽを巻くのが先か。それはそれとして、夏が長い。日本の四季は一瞬の春、すべてを洗い流す雨季、生命を脅かす長すぎる夏、刹那の秋、すべてが雪に閉ざされる冬によって構成されている。とにかく天候が体に堪える国。前回の更新からは自分の時間を確保できるような日が続いている。その一方で精神状態はあまり良くない。ここからはとりあえず調子が良くないですという話が続くので、次の見出しから読んでもらっても大丈夫です。新型コロナウィルスの猛威や新生活による環境変化がスリップダメージになっているのは相変わらずで、それが危険な水域にまで近づいているような気がする。めちゃくちゃ調子が良い日もあるけれど。帝国劇場で上演されていた『ミス・サイゴン』のチケットを確保していたのだが、巡り合わせが悪く、公演は中止となってしまった。それが8月の末で、以来ずっと調子が上がって来ない。一体自分は何のために頑張ってきたのか、頑張っているのか、頑張っていくのか──そんな疑問がずっと鎌首をもたげ、蛇のようにこちらを睨んでいる。その疑問に答えを示すことができず、しかし日々は続いていく。修士生活の4分の1が早くも終わってしまった、手元にあるのは単位くらいのもので、負債の感覚は日に日に強くなっている。世界、あらゆる「自己」以外──この場合「自己」と「自己自身」も区別される──への負債の感覚。初めのうち、初めのうちというか、まだヘラヘラすることが出来ていた一ヶ月くらい前までは、異常な体重の減少も含めたこの不調も金銭面に余裕ができれば回復するだろうと思っていたのだが、7月分のアルバイト代がどかんと入った現状でも調子はさらに悪くなっているので、目論見は外れてしまった。たぶんだけれど、「お金がない」も自分にとってはある種言い訳のひとつなのだと思う。お金がないから食事が取れなくて体重が減って調子が悪いんですよ、というひとつのストーリーに色々なことを回収させたいのだ。ざっくりと言ってしまえば、ご飯が食べられないのはお金がないからではなく負債を抱えた自分の体積が増えることを許せないからなのだと思う。じゃあいつになったらそれを許せるようになるのかが次の問題で、答えは思いつかない。修士の二年間が人生で一番しんどいと、先達が口をそろえて語る以上、少なくともあと一年半はかかるのではないだろうか。なにはともあれ、幸福へ向かう推進力みたいなものを身につける必要がある。苦しい場所で生きることに慣れてはいけないし、苦しい生活をしたからといって良いものが生み出せるわけではない。孤独な流浪が『神曲』を書かせるわけではないのだ。私たちはクリエイターが命を削って生み出したものを抱きしめるだけではなく、片手間に作られたものに心酔したって構わない。ものの向こうには人がいる。

 

読んだ本や、毎日の暮らし

 自らの不調をつらつらと残すのはこれくらいにしておきたい。調子は悪いけれど、本は読んでいる。読んでいるというか、目を通してはいると表現する方が正確かもしれない。以下、最近読んだものの一覧。

 

 

 

 

 

 だいたいこんなところで、自分の研究にはまったく関係のない本ばかり読んでいる。研究には関係がないけれど、創作には関係があるので良しとしたい。自分が書きたいのは人間の「祈り」なのかもしれないということに最近気がついた。辞書的な意味でもキリスト教的な意味でもない「祈り」。それはそれとして、最近読んだ中で一番面白かったのは次の本。

 『方法序説』の筆者として知られるルネ・デカルトの遺骨は散逸しながらもヨーロッパ各地で受け継がれてきた。それはまさしく聖遺物のように──。「近代」というものを生み出した人間としてのデカルトの遺骨を巡る人々の動きを中心に、綿密な取材と徹底した時代考証キリスト教信仰の歴史やそもそも「近代とは何か」という命題にまで迫るノンフィクションで、これがめちゃくちゃ面白い。この作者の他の著作がどんどん翻訳されるようになって欲しい。

 日々の生活についてはあまり書くことがない。ぼちぼち自炊をしている。最近なんとなくnoteのアカウントを作ったので、日常生活のことはそちらに書こうかなと思ったりしている。理性ははてなブログに、悟性はnoteに捧げます。

note.com

 

 

 

 

劇評:マイケル・アーデン演出『ガイズ&ドールズ』

 舞台演劇、ひいてはエンターテインメント、いやおよそすべての人々がコロナ禍の長いトンネルに苦しむ中、『ガイズ&ドールズ』もまたそのすべての公演が無事に上演されたわけではなかった。公演中止の報が日常茶飯事になったとしても、中止になった公演が自分の取ったチケットとは無関係だったとしても、胸が痛むことに変わりはない。

 人と人との間に横たわる断絶、隔絶のようなものの存在が強く意識されるようになってしまった現代にあって、この『ガイズ&ドールズ』は二人の人間が寄り添って同じ場所を目指すことの尊さを描く作品でもある。スカイ・マスターソンとサラ・ブラウン、ネイサン・デトロイトとアデレイド。二組のカップルが遠回りをしながらも迎える結末はハッピーと言う他ない。ただなぁなぁで共に過ごすだけではなく、自らの在り方を大きく変え、そしてしっかりとした形式に則って共に「生きていく」ことを決める。作品の持つメッセージ性は時代によって変化するものだが、彼らの生き方から感じられることもまた、この時代にあって大きく変わったように思われる。それは何も70年以上遡るブロードウェイの初演と比べて、というだけではなく、2015年の宝塚歌劇団星組公演と比べてもそうではないだろうか。

 まずは各キャストのパフォーマンスから触れていきたい。今回の上演で主役のスカイを演じるのは円熟味を増している井上芳雄、一方のネイサンは浦井健治という顔ぶれ。そしてサラ・ブラウンを明日海りおが、アデレイドを望海風斗が演じるということでキャスト発表当初から非常に話題となった。スカイ・マスターソンはロマンに満ちたキャラクターである。空にも届かんばかりの賭けっぷりから「スカイ」と呼ばれるアメリカで一番のギャンブラー。セリフと立ち振る舞いからにじみ出るカッコよさを表現する井上芳雄のパフォーマンスは素晴らしく、星組公演版北翔海莉のスカイとは違った、ある種のリアルさを生み出していた。この絶妙な「リアルさ」は各演者の演技だけではなく、演出も含めて作品全体を貫くもののように感じられたが、この点については後述したい。一方でネイサン・デトロイトもまた難役である。アデレイドとの婚約期間はなんと14年。一般的にはあまりにも長い、長すぎる結婚前夜になぜアデレイドは耐えているのかという観客の疑問に答えるだけの説得力を持たせなければ、ネイサンというキャラクターは成立しない。この点に対する浦井健治の解答は、スカイとのコントラストを際立たせることで、つまりネイサンの持つ「弱さ」とでも言うべき部分を強調することだったように思う。そうすることで逆説的に際立つのはネイサンに対するアデレイドの愛、「それでも好き」という感情の、ある種暴力的な部分である。ミュージカル界にとって欠かせない存在になりつつある浦井健治の成長を感じられるパフォーマンスだった。

   

 そのネイサンを愛してやまないアデレイドを演じた望海風斗は流石の一言。宝塚歌劇団退団後から勢力的な活動を続け、歌唱力はもちろん演技力にも目を見張るものがある。宝塚版のアデレイドはかわいらしい、「オールドミス」の肩書きがそれほどフィットしていない礼真琴によるアプローチが記憶に新しいが、望海のアデレイドはよりブロードウェイ版のそれに近い造形だったのではないだろうか。そしてやはり軍曹サラ・ブラウンを演じた明日海りおの印象は鮮烈かつ強烈なものだった。花組トップスターとして時代を支えたころの立ち姿とは打って変わって女性らしさのある彼女の姿に、ファンとしては一抹の寂しさもあったが、卓越した表現力はそのまま。救世軍という立場とスカイへの感情の間で揺れ動くサラというキャラクターを見事に演じていた。

 演出面で印象に残っているのは、「これは舞台作品である」ということと「彼ら(登場人物たち)は実際に生きて生活している」という二つの相反する要素を巧みに両立させていた点。まず画面造りが上手い。もちろん映像作品とは違って舞台作品は観客の視点を造り手の思うように固定することは出来ないのだが、観客が見るものすべてに対して徹底的に意識を張り巡らせていたように思う。舞台セットは回転しながら場面場面を切り取りつつ、オープニングの長い長い生活の描写で観客を当時のニューヨークへ誘う。板の上を行き来するのは実際に、本当に生きている人間たちなのだと思わせる。スカイとサラがハバナから帰ってくる場面の演出は特に印象的。振り付けや演出は素晴らしかったものの、やはり著作権の関係で変更せざるを得ないのだろうセリフや各ナンバーの歌詞には違和感があった。宝塚版を見慣れているという点を差し引いても、このセリフがそうなってしまうのかぁと感じた場面がちらほらとあり、その辺りの難しさが垣間見える。しかし全体的に言えば素晴らしく、決して無事とは言えないがこの作品が上演にこぎ着けたことは、一人のミュージカルファンとして心から嬉しく思う。各出演者のこれからにも期待したい。

maholo2611.hatenablog.com

 

日々のこと(2022/05/05~)

 春が過ぎ地獄のような夏が来た。東京に来て5ヶ月くらいが経つ。夏季休暇期間を迎えることが出来た。本当に、ひょっとしたら夏になる前にどこかのタイミングで倒れるかもしれないなと思った。上京と新生活への高揚感、自らへのプレッシャーで自分のキャパシティを見誤った結果およそ2ヶ月でメスのハスキー犬一匹分くらいの体重が減った。「食べる」ということへのハードルが上がっている。節約のために食べる量を減らしているのだから仕方ないという気持ちと、精神的な不調に「お金がないからなぁ」で蓋しているだけじゃないのかという自分に後ろ指をさす気持ちと、色々ある。単刀直入に言えば、精神と肉体との均衡が崩れている。それが崩れたまま走り抜けようとして7月になり、数回の発表と数本のレポート、長編の執筆が重なって、めちゃくちゃなことになった。朝起きたら、声が出なくなっていた。一切。自分でも本当に驚いて、喉の痛みも他の不調もなかったけれど、とりあえず体温を計ったりした。アルバイトに入りすぎたのも良くなかったのかもしれない。それでも、どうしようもなくやらなければならないことがある。疲れが喉に来たのだろう。一週間くらいで元通りになったので良かった。

 こんなことをつらつらと書いているけれど、しんどいことばかりだったわけではない。奇跡的に『ガイズ&ドールズ』を観劇することが出来たのだ。明日海りお・望海風斗の夢の競演。感想のエントリーすら書けていないが、時間があれば取り掛かりたい。研究の方は遅々として進まず。ただずっと書いていた長編の、最後の一行を書けた喜びは大きい。願わくばこの作品が何らかの形になってくれればと思うが、そんなに甘くはないだろう。結局何も成し遂げられていない焦燥感だけがずっとある。とにかくやるしかない。とにかく。

 世間的には何があっただろう。日記を毎日書くという習慣がなくなり、ニュースへのリアクションを残さなくなってしまった。「政治的な発言をするな」と他人に伝えることがどれだけ政治的な行いなのかと考えたり、考えなかったり。全部政治だし、全部消費です。

 アルバイトも落ち着いて、いよいよ夏休みなのだが、何をすればいいのか分からない。具体的には「どうやって休めばいいのか」分からない。高校野球を見ながら、変に焦ったりしている。何の読みごたえもない文章を書いてしまいましたが、下半期はもうすこしエントリーを書いていければと思っていますので、よろしくお願いします。

 

日々のこと(2022/4/10~)

 東京に来てからだいたい2か月が経った。講義とアルバイトが始まった。学部とは分野の違う専攻なので、力不足を痛感する毎日が続いている。やるしかない。最近はずっとホットケーキを食べている。自分で焼いて。誰に注意されることもないので、びたびたにメープルシロップをかけられる。買ってきたフライドチキンと一緒に食べて、アメリカ気分を満喫している。ちなみにケンタッキーは冷凍できるので、キャンペーン中に買ってストックしています。自炊はぼちぼち。

 研究の方は遅々として進まない。自分が何を研究すればいいのかもいまひとつ分からず、研究計画書に書いた内容の通りに進んでいいのかも分からない。そもそも文学研究のいろはを叩き込む必要がある。哲学の方法論を持ち込まない方が良いことは分かる。なんとなく。現状はとりあえず本を読んでいる。発表の予定も立て込んできているので、読まなければならないもの、読んでおいた方がいいものがそびえている。山々のように。下は読んだ本の一部。

 

 全体よりも部分を重視する日本という文化圏内の文学史において、長谷川時雨は明らかに過小評価されている。彼女が過小評価されているという事実こそが、女性作家ないし女性という存在の軽視を物語っている。『魯肉飯のさえずり』は、社会通念と自分の常識とが、社会の外延と自己の外延とが一致している人─一致していると思っている人─ってムカつきますねという感想。ここ数年のトランプ大統領を巡るアメリカの政治と世論には驚きの連続なのだが、こうやって一冊の本としてまとめられたものを読むとさらに驚いてしまう。まさか自分を大統領に押し上げた民主主義のテーブルをこうも簡単にひっくり返してくるとは思っていなかった。ドナルド・トランプという人間の目的意識の見えなさというか、思いついた手段をとにかく実行することが目的になっているような印象が否めない。中絶権に関する司法の判断が50年ぶりに覆されるかもしれないという報道もあった。トランプが政権に返り咲く可能性は決して低くない。そして『真夜中の子供たち』、ブッカー・オブ・ブッカー、20世紀最高の小説と名高いこの作品。ポストコロニアルマジックリアリズムが織りなすインドの歴史。傑作と言う他ない。

たったひとりの人生を理解するだけでも、世界を呑みこまなければならない

 本以外に費やす時間が現在ほとんどなく、映像作品や漫画はほとんどチェックできていない。映画館に行きたいなと思うものの、まだこの街にフィットできていない。違和感というか、異物感がある。自分自身に。

   

 そんな中で、ドラマ『お耳に合いましたら』は面白かった。主演の伊藤万理華さんは寡聞にして存じ上げなかったけれど、乃木坂46に所属されていたらしい。そのときに出会わなくて良かったと思うほど、彼女の身体表現には特筆すべきものがあるような気がする。アイドルとしてステージに立つ彼女の輝きったら、なかっただろう。最近だと「ピュレグミ」のCMにも出演されています。ドラマで言うと、BSプレミアムで放送されていた『雪国』も素晴らしかった。川端康成の『雪国』を原作に、島村を高橋一生が、駒子を奈緒が演じていた。映像の美しさ。記録的な雪に埋もれる会津の風景に、高橋一生の抑制された声が響く。

「これ徒労でなくてなんであろう。」

 藤本タツキによる読切『さよなら絵梨』の公開もあった。無料公開がもうすぐ終了するらしいので、ぜひ今のうちに。無料公開と言えば、『ゴールデンカムイ』も読んだ。めちゃくちゃ面白かった。ゴールデンウイークの初日はこの作品のためだけに終わった。尾形が好きです。

 最近と言えば、こんな感じに過ぎている。体重が減っている。めちゃくちゃ減っている。年明け以来に会った幼馴染みには「痩せたんじゃなくてやつれている」と言われた。原因は火を見るよりも明らかで、食べていないし寝ていないのだ。いや食べているし寝てもいるのだけど、量が足りていない。とにかく時間がないし、懐も寒い。芝居を一本見られるなら食事は抜けるし、小説を書く時間が作れるなら睡眠時間を削ることも出来る。朝からアルバイト、昼過ぎから夜までは講義というサイクルで生活をしている中で、それでも小説を書くためにはどうしても食事と睡眠の時間を回すしかない。PCを開いたまま机でうたた寝をして、ハッと気づいてベッドに移動するような、そんな感じの日々。今年が勝負なのに、もうすぐ6月になる。焦燥感と、そして罪悪感もある。とにかくやるしかない。