感情の揺れ方

それでも笑っていたい

2023年を振り返って

命の果てに至るまで、誰をも幸福と呼ぶなかれ

 

 2023年を振り返るとは言うものの、やはり何も為すことがなかったという一言に尽きる。愛するものを愛し続けるために、血を流さなければならなくなった。Twitterはやめた。人よりも努力をすることが悪徳と見なされる日が、人よりも努力の出来る人間が悪人と見なされる日が、すぐそこまで来ている。この社会はよく出来ている。10の努力をして100の結果を生み出す人間のお陰で、10の努力をして10の結果を生み出す人間が肩の力を抜いて暮らすことが出来る。けれど、10の努力をして1の結果を生み出す人間が、10の結果を得るために100の努力をしなければならない人間が、10の努力しか許されないままの環境で生きていけるほどによく出来てはいない。

 

 2023年、お疲れ様でした。

感想:月組公演『DEATH TAKES A HOLIDAY』

「苦しまなければいいということでもないのが厄介ですな。

 苦しみを知らずに愛を知るということができるでしょうか」

             ──ダリオ・アルビオーネ男爵

 東急シアターオーブで上演された月組公演『DEATH TAKES A HOLIDAY』は、アルバート・ガゼーラ氏による戯曲を下敷きに映画『明日なき抱擁』『ジョー・ブラックをよろしく』など、数々の翻案が存在する作品をもとにしたミュージカルの日本初演となる。作曲を務めているのはモーリー・イェストン氏で、今回の潤色・演出を担当するのは生田大和氏となっている。

 人類史上未曾有の大惨事となった第一次世界大戦を経て、人々を死へと導く役目を果たす「死神」は疲れ果てていた。同時にある疑問を抱いていた。なぜ人はそれほどまでに生き、そしてその生命力を危険にさらすのかと。そこで死神は休暇を取ることにした。人が死を怖れる理由を知るため、そして生きるとは何なのかを知るために。

 冒頭で引用したのは、英真なおき演じるダリオが、死神(月城かなと)扮するニコライ・サーキから愛や人生について尋ねられたときのセリフである。生きることの苦しみ、愛することの苦しみ。かつて恋人関係にあったが、今は記憶が混濁しダリオのことを亡くなった夫だと思い込んでいるエヴァンジェリーナ(彩みちる)の主治医を献身的に務めるダリオが紡ぐこの言葉に、あるいはダリオとエヴァンジェリーナの二人に、『DEATH TAKES A HOLIDAY』という作品のテーマが表さられている。それはつまり「進んだ時間がもとに戻ることは決してない」ということであり、また時間の流れが止まるものは「死」以外にありえないということである。生田氏による演出は徹底している。舞台は「月」や「レコード」、あるいは舞台機構の「盆」そのものといった、「環」を連想させるモチーフに満ちており、それが動いていく様子はまさしく「時計」が動いていく様子に他ならない。そしてそれは一見すると、ステファニー(白雪さち花)が何度も口にする「元通り」という言葉につながっていくように思えるが、決してそうではない。時計の針は一周して同じ場所に戻るとしても、人間が、彼らの生きる人生が元通りになる地点など存在しないのだ。時計の針がもとの場所に戻るまでの間に経験したこと、変化したこと。二日間の休暇を過ごした死神がもたらした変化は、たとえ死神が去っても消えることはない。たとえ外見上は同じであっても、それまでとは違う自分がそこに立っているのだ。そして、時計の針は止まらない。死神が休暇を取り、世界から「死」が消えたとしても。例外は唯一、エヴァンジェリーナだけだ。死神の来訪によって自らの死期を悟った彼女の人生の針だけが、動きを止める。記憶は鮮明さを取り戻し、初恋の相手であるダリオをダリオとして再び愛するのだ。「死」とは惜しみなく奪うものであると同時に、時計の針を止めるものでもある。アリス(白河りり)とサーキが踊り、キスをする場面では動いていたレコードが、ダリオとアンジェリーナが愛を確かめ合う場面では止まっている演出も憎い。盆の回転の方向、どの場面では止まりどの場面では動いくのかも徹底されていたところに、作品に対する生田氏の姿勢が見えるようだった。そして第二幕のこの場面では、それまでなかった暗転による切り替えが行われていたことにも注目しなければならないだろう。

 何十年という月日を経て再び愛を手にしたダリオとエヴァンジェリーナ。対して、たったの二日という短い時間の中でグラツィア(海乃美月)への愛を知り苦悩する死神。この鮮やかなコントラストをで舞台上に描いた生田氏の演出と、各演者による最高のパフォーマンスに拍手を送りたい。人間の肉体を手に入れた初めての朝、大喜びで目玉焼きを、未だ見ぬ生命の象徴を口にする死神と、ヴィットリオ(風間柚乃)に「あなたがグラツィアを連れていくことは、生まれたかもしれない命まで奪うことだ」と説得される死神の演じ分け。月城かなとの表現力はどこまで行くのだろう。そして死神の愛に応えるグラツィアを演じる海乃美月も、さらに一段階上の演技を見せていたように思う。『THE LAST PARTY』のゼルダのような、浮世離れして「現世では生きていけないような人」を演じさせると今の宝塚で右に出る娘役はいないのではないだろうか。

 わきを固めるメンバーも素晴らしかった。ヴィットリオの他に唯一サーキの正体を知る使用人のフィデレを演じた佳城葵は今作のコメディ要素の根幹を担っていたし、白河りりの歌唱は鮮烈の一言。グラツィアに婚約を破棄されるコラード役の連つかさ、サーキの正体を喝破するエリックを演じる夢奈瑠音も素晴らしかった。カンパニーの人数が少ない中でさまざま場面を作り上げた下級生にとってもタフな公演だったように感じる。一人の宝塚ファンとして、彼らの活躍が映像化され、形に残ることを願っている。

 

映画評:是枝裕和監督作『怪物』

 坂元裕二がまさか世界的な評価を得ることになるとは思ってもみなかった。カンヌで賞を取るより前から、是枝監督が坂元脚本で映画を撮るということで気になっていたこの『怪物』。ある出来事に関するひとつのシークエンスを三つの視点──親・教師・子供の視点──から描くという構成になっている。親から見た教師と子供、教師から見た親と子供。それぞれがそれぞれにとってどのような存在なのか、それぞれが主体的にはどのような存在なのかを複層的に描写することで、『怪物』あるいは「怪物誰だ」という印象的なワードが立ち上がってくるようになっている。

 映像は美しく、これぞ坂元脚本と言いたくなるような言葉をしっかりと肉のあるものとしている俳優陣の演技も素晴らしかった。個人的に気にかかったのは永山瑛太演じる担任教師・保利の描写やキャラクターで、母親の視点から描かれる彼と、他の二者の視点で描かれる彼との間に共時性──平たく言えば一貫性だが──を持っていなかったように感じた点である。この人とこの人は本当に同一人物なのか?と言いたくなるのだが、それこそがタイトル『怪物』の意味するところなのかもしれない、とも思う。

 作中で「怪物」と直接に表現される存在である子どもたち、湊と依里についてはまだ定まったことを言えるほどにかみ砕いてはおらず、しかし片足を引っかけるような形で言及したくないテーマが多分に含まれるためこのエントリーでは触れないこととする。ただひとつ、「クィア・パルムではなくない?」とだけ書き残して、結びとしたい。

映画評:トッド・フィールド監督作『TAR』

 映画の評価が「俳優の演技・映像・演出・設定」だけで決まるとしたら、この『TAR』はまごうことなき傑作だった。そう断言できるほどにケイト・ブランシェットをはじめとした演者のパフォーマンスは素晴らしいものだったし、執拗なほどに徹底した同じモチーフ、ショットを多用する演出もまた強く印象に残っている。しかし映画とは総合的なものであり、この『TAR』について言えば、脚本だけが他の要素よりも数段劣ると言う他ない。だが「脚本がいまひとつ」と評価するのも、評価してしまうことにもある種の困難がある。なぜなら個々の場面、筋書ややり取りには秀でたものがあるからで──なんと表現すればいいのか、エンドロールが終わった後に抱いたのは「面白くなかったとは言いたくない」という感想だった。トッド・フィールドで、この設定で、ケイト・ブランシェットがリディア・ターという役柄を演じて、美しい場面があって。それでこんなことになるわけがない、とでもいうような。

 正直なところ、この文章を書いている今も今作に対する評価は自分の中で固まっていない。非常に優れた部分も存在するけれど、作品全体として面白かったのかと言われれば首を縦に振ることも、また横に振ることもできない。そんな感覚が残る映画だった。

 

真風涼帆・潤花の退団によせて

 ダニー・オーシャン、シャーロック・ホームズ、そしてジェームズ・ボンド。これらの役をたった一人の俳優が、それも「宝塚歌劇のトップスター」として演じるということの重責、そして困難は想像するにあまりあるが、真風涼帆という舞台人は常に最高のパフォーマンスで応えてきた。ホームズやボンドだけではなく、彼は『天は赤い河のほとり』のカイル、『HIGW&LOW』のコブラといったいわゆる「原作モノ」の主演を務めることも多かった。すでに広く知られているキャラクターを演じるということは、不特定多数の人々が抱くイメージを舞台上に立ち上がらせるということである。同時に「宝塚歌劇」らしさを決して失ってはならないという難題が加わるのだが、真風涼帆は「宝塚の男役」を演じるのが非常に上手い。男役らしい男役と評されるそのヴィジュアルに反して、王道の男役を演じることは少なかった真風涼帆だったが、彼は王道を行くのではなく、自らの歩んだ道を王道とするような男役だった。

 前任の宙組トップスター・朝夏まなともそうだったが、真風涼帆も端的に演技力・表現力に長けた舞台人だった。二番手時代に演じた『メランコリック・ジゴロ』のスタンで見せたコミカルさ、『神々の土地』のフェリックスで見せた抑制の効いた立ち姿。トップスター就任以降も前述したさまざまな役柄を演じ、日本初演となる作品の主役を務めることも多かったが、彼は常に宝塚歌劇のトップスターとしてそこにあったし、常に真風涼帆としてそこにあった。宝塚歌劇団において、芸名を背負ったスターシステムにおいて演じる役柄にすべてを投げ出して染まりきるのは、色々な意味で難しい。ときにはそれが制約となることもある。しかし真風涼帆はその特異なバランス感覚と、役柄を飲み込んでしまうような包容力でもって、すべての難役をこなしてみせた。およそ近年でも稀に見る幅広い演技を見せたトップスターなのではないかと思う。

 真風涼帆を特徴づけるこのバランス感覚と包容力は、組全体にも大きな影響を与えていたように感じる。特に相手役、星風まどか・潤花という二人のトップ娘役の躍進、成長に真風涼帆が演じた役割は大きい。星風も潤も、トップ娘役就任の早さがとりざたされることの多い二人だが、今や星風は専科から花組へと組替えし、トップ娘役として押しも押されもしない活躍を見せているし、潤も就任前から定評のあったダンスだけでなく演技力でも大きな成長を遂げた印象がある。組を超えた星風の躍動も、パーソナルな部分も含めた潤の伸び伸びとした成長も、真風なくしてはありえなかった。特にこのエントリーでは潤花に焦点を当てたい。個人的には、雪組時代から印象的なダンスを踊る娘役という印象はあったものの、強みである彼女自身の明るさやチャーミングな部分が演技や役柄の表現を邪魔しているようにも感じていた。今になって思えば、三度演じた新人公演ヒロインの本役がすべてあの真彩希帆だったということも関係しているかもしれない。演技力が武器の娘役ではない。そんな先入観が裏切られたのはお披露目公演『シャーロック・ホームズ─The Game Is Afoot!─』だった。アイリーン・アドラーを演じる彼女の印象は、それまでとはまったく違うものになっていた。世界でもっとも読者が多いとされる『ホームズ』シリーズ。そのホームズを出し抜いた唯一の女性とも称されるアイリーンを演じるのは、真風涼帆に劣らぬ重圧があっただろう。そう、真風涼帆の相手役を務めるということは、誰もが知っているキャラクターを演じることのプレッシャーを共に背負うということなのだ。持ち前の明るさで重責を跳ねのけていっただろう潤花が宙組に与えた影響もまた、大きい。

 最後に、個人的な二人のベストシーンを挙げて終わりにしたいと思う。まず、真風涼帆は『アナスタシア』のすべて、『神々の土地』での「どちらにです?」というセリフ。潤花は『シャーロック・ホームズ』のすべて、『Délicieux!-甘美なる巴里-』でのカンカン。

 

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感想:宙組公演『カジノ・ロワイヤル~我が名はボンド~』

 真風涼帆・潤花の退団公演があの『007』、しかもあの『カジノ・ロワイヤル』に決まったという知らせを耳にしたときは、一体全体どうなるんだと期待に胸が膨らんだ。ジェームズ・ボンドという、全世界で愛されるキャラクターを、しかもミュージカルで。ショーン・コネリーか、ダニエル・クレイグか。いや真風涼帆というトップスターなら、彼にしか出来ないボンドを演じてくれるだろう。そんなことを思いながら劇場に足を運んだ、運んだのだが……。

 

 まず、私はダニエル・クレイグの演じた『007』シリーズのファンであるということを前提としたうえでこの感想を読んでいただければと思う。事前情報のない、フラットな視点ではどうしても観劇することが出来なかった。そして観劇後にまず感じたのは、「これなら別に『007』である必要はなかったのでは?」というものだった。舞台設定などは2006年に公開された映画『カジノ・ロワイヤル』(以下『ロワイヤル』)ではなく、1953年に出版された原作小説の方に準拠している。そこに潤色・脚色をしたのが今回の『我が名はボンド』となる。暴論であることは重々承知なのだが、その脚色部分がまったく好みではなかった。潤花が演じたのはヴェスパー・リンドではなくデルフィーヌというロマノフ家の末裔で、『ロワイヤル』には存在しない。ソルボンヌの院生で、反戦運動に参加し社会を変えようとしているという役どころなのだが、個人的には潤花という役者が演じるヴェスパーとボンドのやり取りが見たかった。デルフィーヌの恋人、ミシェル・バローは桜木みなとが演じて、敵役であるル・シッフルとその元恋人で今は片腕を務めるアナベル(天彩峰里)とのこじれた恋愛関係もこの舞台版では大きな要素になっている。なんと言えばいいのか、小池修一郎氏による「宝塚的な」、言葉を選ばなければ「内輪ノリ的な」演出が、とても気になった。「皇帝ゲオルギは立ち上がる」に代表される宝塚パロディ、そして「宝塚的」でなくてもエンタメに寄った演出の数々が、『007』という看板の中身を空虚なものにしている気がしてならなかった。小池氏の「エンタメ的」な演出は、例えば2017年月組公演『All For One』の劇中劇が『反撃の巨人タイタン』というタイトルだったり、『THE SCARLET PIMPERNEL』でパーシーとマルグリットの心が通じ合う瞬間のそれだったりと枚挙に暇がなく、うまく作品全体を魅力的なものにすることもあるのだが、今回は良い方向には転んでいなかった。

 もちろん、いろいろな事情があることは分かる。『ロワイヤル』に寄った脚本にすると登場人物があまりに少なく、ほとんどの組子にセリフがなくなってしまう。『007』をそのまま再現したところで、ある意味「宝塚で上演する意味」がなくなってしまう。けれど、それでも、ボンドが注文する数々のドリンクに関する演出はもうちょっとどうにかなったのではないかと思うし、どうしても『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』と比べてしまった。

 ただこのような点をまったく気にしなければ、つまり「この『007』は宝塚歌劇団宙組の『007』だから」と完全に割り切ってしまえば、おもしろく観劇できるとは思います。

 

劇評:ジョン・ケアード演出『ジェーン・エア』

 ジェーン・エアは引き裂かれている。その内に「分裂」を抱えている。その「分裂」を乗り越え、ジェーンがアイデンティティを手に入れる。それがこのミュージカル『ジェーン・エア』なのだ。

 父と母を亡くし、孤児となったとき。伯母のミセス・リードに引き取られ、ローウッドで「うそつき」のレッテルを貼られたとき。親友のヘレン・バーンズをチフスで失ったとき。ジェーンはその身に「分裂」を抱えることになった。親子という繋がりが断ち切られ、真実の無意味さを知り、「赦し」を教えてくれたヘレンが若くして天国へ旅立った。ジェーンはまさしく「引き裂かれた」が、その「分裂」を表現する演出が印象に残っている。あくまでもジェーンの精神的な、内側の問題である「分裂」を舞台上に、観客が見える形で表現するためにジョン・ケアードは、ジェーンを主体と客体とに分けた。「分裂」させた。換言すれば、「見る」ジェーンと「見られる」ジェーンとに引き裂いたのである。ジェーンが自身の幼少期を語るとき、彼女がその視界に捉えているのはまさしく幼いジェーンその人であり、ヘレンとジェーンの悲劇を正面から見据えるのものまたジェーンその人なのである。そして他の登場人物もずっと、「ジェーンを見るジェーン」を見ている。ジェーン・エアは常に「見られて」いる。コロスのような役割を引き受ける登場人物に、自分自身に。ジェーンが舞台上にほぼ出ずっぱりという点も印象的だ。いやむしろ、舞台袖にはけている時間の方が長い、という演者はいないのではないか。ジェーンはこの物語の主人公であるのに、舞台上に独りとなることはなかった。なかったのだ。この作品を実際に観た人は「いやそんなことはなかった」と、数少ない場面を思い浮かべるかもしれない。しかし、同時に思い出して欲しい。客席から「視線」を送る私たちの視界に、ジェーン・エア以上にずっと映っていた存在がいたはずなのだ。そう、「オンステージシート」の観客である。観客でありながら舞台上に引き上げられた彼らの視線は、各演者と同じレベルでジェーンに注がれる。いや、その客席が上方に設けられていることを考えれば、その視線はどちらかと言えば超越者の視線に近いのかもしれない。ジェーン・エアは常に神的な視線をその身に受けながら「赦すこと」を学び、実践していく。ジョン・ケアード氏の演出は、キリスト教的な意味においても興味深いものがあった。

 各出演者のパフォーマンスも素晴らしかった。ジェーン・エアとヘレン・バーンズはダブルキャスト、しかも役替わりというチャレンジングなものになっている。私が観た上演会は上白石萌音ジェーン・エア、屋比久知奈がヘレン・バーンズだったが、両者の演技、歌唱は力強く、ジェーン・エアを通して原作者シャーロット・ブロンテの生き様や苛烈さを感じさせるに十分なものだった。エドワード・ロチェスターを演じた井上芳雄の立ち居振る舞いは、ある意味支離滅裂な彼の行動にいくらかの説得力を持たせるに足るものだった。春野寿美礼樹里咲穂・仙名彩世・春風ひとみら、宝塚歌劇団OGの面々はさすがの一言。原作小説とは展開に違いが見られたが、その部分の脚色も上手かったように思う。

 コロナ禍に出口が見えてきた(ということになっている、だけだとしても)昨今、演劇業界がこのような素晴らしい作品とともに再び盛り上がってくれることを願ってやまない。