感情の揺れ方

それでも笑っていたい

感想:月組公演『DEATH TAKES A HOLIDAY』

「苦しまなければいいということでもないのが厄介ですな。

 苦しみを知らずに愛を知るということができるでしょうか」

             ──ダリオ・アルビオーネ男爵

 東急シアターオーブで上演された月組公演『DEATH TAKES A HOLIDAY』は、アルバート・ガゼーラ氏による戯曲を下敷きに映画『明日なき抱擁』『ジョー・ブラックをよろしく』など、数々の翻案が存在する作品をもとにしたミュージカルの日本初演となる。作曲を務めているのはモーリー・イェストン氏で、今回の潤色・演出を担当するのは生田大和氏となっている。

 人類史上未曾有の大惨事となった第一次世界大戦を経て、人々を死へと導く役目を果たす「死神」は疲れ果てていた。同時にある疑問を抱いていた。なぜ人はそれほどまでに生き、そしてその生命力を危険にさらすのかと。そこで死神は休暇を取ることにした。人が死を怖れる理由を知るため、そして生きるとは何なのかを知るために。

 冒頭で引用したのは、英真なおき演じるダリオが、死神(月城かなと)扮するニコライ・サーキから愛や人生について尋ねられたときのセリフである。生きることの苦しみ、愛することの苦しみ。かつて恋人関係にあったが、今は記憶が混濁しダリオのことを亡くなった夫だと思い込んでいるエヴァンジェリーナ(彩みちる)の主治医を献身的に務めるダリオが紡ぐこの言葉に、あるいはダリオとエヴァンジェリーナの二人に、『DEATH TAKES A HOLIDAY』という作品のテーマが表さられている。それはつまり「進んだ時間がもとに戻ることは決してない」ということであり、また時間の流れが止まるものは「死」以外にありえないということである。生田氏による演出は徹底している。舞台は「月」や「レコード」、あるいは舞台機構の「盆」そのものといった、「環」を連想させるモチーフに満ちており、それが動いていく様子はまさしく「時計」が動いていく様子に他ならない。そしてそれは一見すると、ステファニー(白雪さち花)が何度も口にする「元通り」という言葉につながっていくように思えるが、決してそうではない。時計の針は一周して同じ場所に戻るとしても、人間が、彼らの生きる人生が元通りになる地点など存在しないのだ。時計の針がもとの場所に戻るまでの間に経験したこと、変化したこと。二日間の休暇を過ごした死神がもたらした変化は、たとえ死神が去っても消えることはない。たとえ外見上は同じであっても、それまでとは違う自分がそこに立っているのだ。そして、時計の針は止まらない。死神が休暇を取り、世界から「死」が消えたとしても。例外は唯一、エヴァンジェリーナだけだ。死神の来訪によって自らの死期を悟った彼女の人生の針だけが、動きを止める。記憶は鮮明さを取り戻し、初恋の相手であるダリオをダリオとして再び愛するのだ。「死」とは惜しみなく奪うものであると同時に、時計の針を止めるものでもある。アリス(白河りり)とサーキが踊り、キスをする場面では動いていたレコードが、ダリオとアンジェリーナが愛を確かめ合う場面では止まっている演出も憎い。盆の回転の方向、どの場面では止まりどの場面では動いくのかも徹底されていたところに、作品に対する生田氏の姿勢が見えるようだった。そして第二幕のこの場面では、それまでなかった暗転による切り替えが行われていたことにも注目しなければならないだろう。

 何十年という月日を経て再び愛を手にしたダリオとエヴァンジェリーナ。対して、たったの二日という短い時間の中でグラツィア(海乃美月)への愛を知り苦悩する死神。この鮮やかなコントラストをで舞台上に描いた生田氏の演出と、各演者による最高のパフォーマンスに拍手を送りたい。人間の肉体を手に入れた初めての朝、大喜びで目玉焼きを、未だ見ぬ生命の象徴を口にする死神と、ヴィットリオ(風間柚乃)に「あなたがグラツィアを連れていくことは、生まれたかもしれない命まで奪うことだ」と説得される死神の演じ分け。月城かなとの表現力はどこまで行くのだろう。そして死神の愛に応えるグラツィアを演じる海乃美月も、さらに一段階上の演技を見せていたように思う。『THE LAST PARTY』のゼルダのような、浮世離れして「現世では生きていけないような人」を演じさせると今の宝塚で右に出る娘役はいないのではないだろうか。

 わきを固めるメンバーも素晴らしかった。ヴィットリオの他に唯一サーキの正体を知る使用人のフィデレを演じた佳城葵は今作のコメディ要素の根幹を担っていたし、白河りりの歌唱は鮮烈の一言。グラツィアに婚約を破棄されるコラード役の連つかさ、サーキの正体を喝破するエリックを演じる夢奈瑠音も素晴らしかった。カンパニーの人数が少ない中でさまざま場面を作り上げた下級生にとってもタフな公演だったように感じる。一人の宝塚ファンとして、彼らの活躍が映像化され、形に残ることを願っている。