感情の揺れ方

それでも笑っていたい

感想:宙組公演『アナスタシア』~真風涼帆・星風まどかの遥かな旅路~

 ミュージカル『アナスタシア』。おそらくだが、2020年日本のミュージカルシーンはこの作品が席巻するはずだった。はずだったのだ。新たな感染症が世界中で流行し、人々が分断され、ありとあらゆる舞台の幕が閉じたままになるという事態に直面することがなければ。今までの愛すべき日常が続いていれば『アナスタシア』はまず梅田芸術劇場主催のもと3月に東京で幕を開け、4月に大阪で千秋楽を迎えていた。そしてそれに続く形で、宝塚版が上演されることになっていた。しかし、新型感染症の感染拡大に伴い梅田芸術劇場版は予定されていたスケジュールの半分もこなすことなくクローズされ、この宝塚版もおよそ5か月に渡って上演が延期された。自粛の空気に満ちた数か月を経て、世界の在り方は大きく変化している。当たり前だと思われていた日常を過ごすことは不可能になった。だが、そのような状況だからこそこの『アナスタシア』という作品のテーマである「家族とはなにか?」「帰るべき場所とはなにか?」という問いかけに、以前とは違った説得力のようなものを感じさえする。帝政ロシア最後の皇帝ニコライ二世とその一族は革命によって処刑されたが、末娘の皇女アナスタシアだけは生き延びていたのではないか──。いわゆる「アナスタシア伝説」をモチーフにしたこのミュージカルは、記憶喪失の少女が果たして誰なのかという大きなテーマを軸に、人間の背負う「過去」や「記憶」をめぐる遥かな旅を描く物語だ。

 20世紀初頭のロシア、サンクトペテルブルク

 ある冬の夜、ロシア帝国皇帝ニコライ二世の末娘アナスタシアは、大好きな祖母であるマリア皇太后から小さなオルゴールを手渡される。”このオルゴールから流れる音を聞いたら私を思い出して…”。皇太后はそう言い残し、パリに移住する。

 時は流れ、17歳の美しいプリンセスへと成長したアナスタシア。しかし、王宮での舞踏会の最中、ボリシェヴィキの攻撃を受け一家は死亡、ロマノフの栄華は終焉を迎えるのだった……。

 ロシア革命から10年の時が過ぎたが、サンクトペテルブルクは未だ混乱の中にあった。皇帝一家の中でアナスタシアだけが生き残ったのではないか…街にはそんな噂が広がっている。そんな混沌とした世の中を、悪事に手を染めながらも生き延びてきた鷺氏のディミトリは、アナスタシアを探し出したものには皇太后から莫大な支払われるという話を耳にし、相棒のヴラド・ポポフと共に大掛かりな計画を企てる。アナスタシアに似た人物を探し出し、報奨金を騙し取ろうというのだ。ディミトリ達は、早速”アナスタシア役”のオーディションを始めるが、めぼしい者はなかなか現れない。そんな時、出国許可証を手に入れたいと一人の娘がディミトリを訪ねてやってくる。彼女には幼い頃の記憶がなく、”アーニャ”という名前すらも、病院でつけてもらったものだという。”パリで誰かが私を待っている……”そう語る娘に興味を抱いたディミトリは、彼女をアナスタシアに仕立てようと決めるのだった。歴史や行儀作法、ダンスなど、アーニャは様々なレッスンを重ねていくが不安を隠せない。

 ディミトリは、そんな彼女に闇市で買ったロマノフのものだというオルゴールを手渡す。すると誰にも開けられなかったオルゴールの蓋をアーニャが簡単に開き…どこか懐かしいオルゴールの音色に、アーニャは遠い記憶の世界へと誘われていく…。

 それまでもディミトリは資金調達に奔走していたがパリ出発の目途は立たないままであった。するとアーニャが、一粒のダイヤモンドをディミトリに差し出す。それはアーニャが病院にいた時、看護婦から下着に縫い付けてあったと渡された、大切なものであった。アーニャはディミトリを心から信じようと決めたのだ。様々な困難を乗り越え、ディミトリ、アーニャ、ヴラドは、皇太后がいるパリへと向かう──。

 一方、ロシア新政府はアナスタシア生存の噂について調査を進めていた。ロマノフ一家を銃殺した男の息子である新政府の役人グレブ、ヴァガノフは、尊敬する父親と同様に命令に従い生きてきた。かつて街中で出会い心奪われたアーニャに対する思いと絶対である任務の間で揺れ動くグレブだったが、”アーニャがアナスタシアであれば銃殺せよ”との命を受け、パリへと向かうのだった。

 華やかなパリの街。ディミトリは、アーニャの事を知れば知るほど、彼女をただの”アナスタシア役”だとは思えなくなっていた。あるバレエ公演の終演後、皇太后の側近でヴラドの元恋人リリーの協力を得て、ついにアーニャは皇太后との面会を許されることとなるが…。

            公演プログラムより  

   

 サンクトペテルブルク発パリ行き──。一人は莫大な報奨金を得るために、一人は自分が何者なのかを知るために。それぞれの旅路は思わぬ形で交わり、それぞれの記憶と過去を巡る遥かな旅が始まる。真風涼帆演じるディミトリは早くに両親を亡くし、悪事に手を染めながら生きてきた。しかし彼の心の中には純粋な部分も残っていて、だからこそどこの誰かも分からないアーニャが自分の隠れ家にやって来たときも水とチーズを出し、彼女を”アナスタシア”に仕立てあげる中で「彼女がアナスタシアであって欲しい」と思い始めるようになる。軽薄な態度に秘められた過去というコントラストの激しい役柄だが、そこは流石の真風涼帆といったところ。ディミトリという人物にとって、帰る場所とはどこなのか、家族とは何なのかという大きなテーマを、演技を通して表現していたように思う。

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ディミトリ(真風涼帆)

 そしてやはり、この物語は星風まどか演じるアナスタシアの物語だと思う。アナスタシアかもしれないアーニャが、”ただそうしなければならないと思うから”という理由だけでディミトリとヴラドを巻き込み、サンクトペテルブルクから汽車に乗り込み、本当に皇太后マリアへ会いに行く。「トップスターが主演」という宝塚歌劇の大前提を前にすると忘れてしまいそうになるが、そもそもアーニャはタイトルロールなのだ。「誰だって、別の誰かになれたらって思う」というアーニャの言葉は、この物語を象徴する特別なセリフだと思う。アーニャの目的は、ディミトリやヴラドとは違う。彼女がアナスタシアになろうとするのは、「一体自分は誰なのか」を明らかにするためだ。誰かになるために自分を知るのではなく、自分のことを知るために誰かになる。宝塚版『アナスタシア』において、果たしてアーニャが何者なのかという問いに対して明確な答えが提示されることはない。それはこれが「消えた皇女アナスタシアの物語」ではなく、ましてや「報奨金を狙う詐欺師の物語」でもなく、「サンクトペテルブルクの掃除婦アーニャの物語」であり、「アーニャの帰るべき場所はどこなのか?」をテーマにした物語だからだ。そんな物語の根幹を担う役どころを演じた星風まどかだったが、彼女のパフォーマンスは素晴らしかった。華やかな魅力はもちろん歌唱にも安定感があったし、精神的に不安定なアーニャを演じる表現力には貫禄すら感じさせる。

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アーニャ(星風まどか)

 ディミトリとアーニャ、ヴラドといった、ある意味で「アナスタシア伝説」に夢を見る者たちとは対照的に、新たなロシアを守るため、何よりも父の使命を果たすため伝説という「噂話」に決着をつけようとするのが芹香斗亜演じるボリシェヴィキのグレブ・ヴァガノフである。ロマノフの警護隊の一員であったにもかかわらずニコライ二世たちを処刑し、自殺してしまった父親を持つグレブ。彼はそんな父親を肯定するために、まだまだ不安定な革命を成功に導かなけらばならないという信念を持っている。しかし一方で、街角で見かけて一目惚れしたまさにその少女が”アナスタシアが生きている”という噂の張本人として現れる。信念と恋との間で揺れ動くグレブ。おそらく、この物語の中で最後まで葛藤し続けるキャラクターがグレブ・ヴァガノフだろう。そんな難しい役どころを的確に、端正に演じきった芹香斗亜に称賛を送りたいと思う。

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グレブ・ヴァガノフ(芹香斗亜)

 スターぞろいと言われる95期生の中にあって 、宙組で中心的な役割を担いつつあるのが桜木みなとだ。「ロマノフ王朝亡き後のソビエト」を舞台にした物語にあって、コメディライクなヴラド・ポポフというキャラクターを好演していた。これからの活躍にも期待がかかる。ヴラドの元恋人でマリア皇太后の侍女を務めるリリーを演じた和希そらとのコンビも良かった。和希は『WEST SIDE STORY』や『アクアヴィーテ』以来の女性役だったが、持ち前の表現力で芝居はもちろんフィナーレでのダンスも素晴らしく、紛れもない実力を感じさせるので、来年に控えるバウホール主演が楽しみだ。

 ここからは気になった出演者を個別に挙げていきたい。まずはサンクトペテルブルクから列車に乗り込む場面で重要な役割を担うイポリトフ伯爵を演じた凛城きら。駅の場面は第一幕のクライマックスと言っていいだろう。第二場でのバレエ「白鳥の湖」をディミトリたちが観劇する場面でダンサーを演じていた組子たちも印象的だった。ロットバルト役の優希しおん、ジークフリート役の亜音有星はもちろんだが、オデットを舞った潤花は鮮烈だった。雪組から宙組へ組替えをしてから今作が初めての本公演だが、この場面で今までとは違う魅力を打ち出してきたように思える。娘役で言うと、今年の9月から娘役に転向した愛海ひかるも記憶に残っている。冒頭でニコライ二世とその家族たちが登場する場面があり、彼女は長女のオリガを演じていたのだが、何とも言えない存在感があった。華のある、と表現する方が適切かもしれない。考えてみると、朝夏まなと主演の『王妃の館』新人公演でクレヨン役を演じていた彼女を見た時に「男役なのか」と驚いた記憶がある。娘役としての活躍に期待だ。