感情の揺れ方

それでも笑っていたい

感想:花組公演『銀ちゃんの恋』

 「宝塚歌劇らしさ」といったことについて考えるときに浮かんでくるのは、やはり「美」や「正義」、「平等」あるいは「愛」といったものだろうか。つかこうへい氏による『蒲田行進曲』を下敷きにしたこの『銀ちゃんの恋』に「タカラヅカ的」な潔白さや綺麗事は一切存在しない。しかし、美しい。あまりに美しい人間賛歌である。芝居に憑りつかれ、愛に病んだ人間を讃える歌が高らかに奏でられている。

 主人公の倉岡銀四郎(水美舞斗)は子役上がりの映画俳優で、自分が主役を務めることに固執している。破天荒で豪快な部分が目立つが、「俺こんな性格だし、友達減るよなぁ」と”自分が嫌われている”ということに対しては敏感な面も持ち合わせている。この銀ちゃんが本当にダメな人間で、京都で撮影中の映画『新選組血風録』では共演の橘(帆純まひろ)とたびたびトラブルを起こしてヤス(飛龍つかさ)を始めとした子分たちや恋人の小夏(星空美咲)をハラハラさせ、気の休まる暇を与えない。観客としては「銀ちゃんの何がカッコイイんだ」「どうしてヤスたちは銀ちゃんを慕っているんだ」と思ってしまうのだが、それがまさしくこの作品の肝となる部分なのである。トラブルまみれで小夏を妊娠させ、しかも「自分は大スター」との思い込みからスキャンダルを恐れて無理やりヤスと結婚させようする銀ちゃんには啞然としてしまうが、それでも銀ちゃんの言うことを聞いて小夏のために危険なスタントをこなして出産費用を稼ぎ始めるヤスにはもう、開いた口が塞がらない。

   

 この、銀ちゃんに対する感情に関しての「ズレ」。登場人物たちと観客との間にある「ズレ」が『銀ちゃんの恋』という作品では大きな役割を担っている。その「ズレ」が最後の最後、池田屋階段落ちを撮影する場面で大きなエネルギーを生み出すのだ。自らの死を賭して撮影に臨むヤスを、銀ちゃんは受け止める。ヤスを馬鹿にする橘に啖呵を切る。この場面の銀ちゃんは、本当にカッコイイ。水美舞との芝居と殺陣が素晴らしかった。彼が主演の和物をもっと観たいと思わせるパフォーマンスだった。銀ちゃんのカッコよさを爆発させる、それまでのダメっぷりを的確に表現する水美の力はもちろんこの「ズレ」に必要不可欠なものだが、ヤスを演じた飛龍つかさがいなければ、今回の『銀ちゃんの恋』がここまで素晴らしいものになることはなかっただろう。それほどまでに彼のパフォーマンスは圧巻だった。愛する「カッコイイ」銀ちゃんがどんどんしぼんでいき、自らは小夏のために命を削って仕事をする。「自分が階段落ちを買って出れば銀ちゃんはまたカッコよくなるはず」という狂気的なまでの献身と、死への恐怖。銀ちゃんへの愛と、小夏への愛。ヤスが心の底から「銀ちゃんはカッコイイんだ」と思っていなければ、爆発は起きない。「ズレ」は生まれない。新人公演で初主演を務めて以来成長著しい男役のひとりだったが、今回のパフォーマンスで花組若手男役の中では頭一つ抜けた存在になったように感じる。飛龍つかさのヤスでなければ、観客が「銀ちゃんカッコイイ」と思うことはなかっただろう。「ズレ」を生み出すという点で言えば、もちろん小夏の存在もかかせない。そんなにひどい扱いを受けているのにどうしてと言わずにはいられない小夏と銀ちゃんの恋路を、彼女は演じきっていた。三年目という若手だが、これからの活躍を大いに期待させる。脇を支える出演者、特に専科のふたりも素晴らしかった。ヤスの母を演じた京三紗は短い出番とセリフながら小夏を揺さぶる場面で大きな印象を舞台に残していたし、悠真倫は監督という立場から銀四郎や橘ら役者陣を支えまとめる大道寺を的確に演じていた。繰り返しにはなるが、素晴らしい作品である。水美舞斗と飛龍つかさという男役を語る上でなくてはならない作品のひとつになるだろう。