感情の揺れ方

それでも笑っていたい

浜田秀哉脚本『イチケイのカラス』第2話

 正直なところ、第1話を見た時点では気になるところが多かった。それは例えば入間みちお(竹野内豊)や坂間千鶴(黒木華)の容姿に対する言及の多さなどがそれにあたるのだが……、この第2話は、ともすれば前時代的にも映るセリフや演出の数々に代表される「偏見」を、視聴者である私たちが無意識に抱いていることをあぶり出すような構成になっていた。「裁く側は常に裁かれる側でなければならない」という入間みちおの信念は、常に見る側である私たちもまた見られる側なのだという事実を白日の下にさらしたのだ。

 「偏見」。あるいは「先入観」。それは例えば第1話の大学生・長岡誠(萩原利久)が代議士・江波和義(勝村政信)に対して起こした傷害事件に対する「どうせ代議士があくどいことをしたのだ」という先入観であり、その反対の「馬鹿な学生がカッとなって先に代議士を殴ったのだ」という先入観であり、よりメタな視点である「どちらかが悪いのだ」という視聴者的な先入観だ。しかし、結末はそのどれでもなかった。江波は本当にあくどいことをしていたし、長岡は実際に自分から代議士を殴っていた。作品を通して視聴者の先入観を揺さぶる姿勢は、第2話でより強固なものになっていく。入間たちが扱うのは、1審で有罪判決が下された、人気料理研究家・深瀬瑤子(前田敦子)による幼児虐待事件だった。裁判の焦点は当時1歳半だった長女がSBS、いわゆる乳幼児揺さぶられ症候群になっていたかどうかなのだが、それを明らかにする過程でも、様々な「偏見」「先入観」が提示される。「母親の愛はすべての困難を超えていく」「現場にいた者が犯人だ」「保育士は元恋人の子供にケガをさせる」「小児科医の唐突な海外出張は逃亡である」……。入間たち裁判官が事件の真実を突き止めていく中で、職業や肩書きに対する偏見、ともすれば「こういうストーリーはこういうオチになるだろう」という先入観を私たち視聴者が持っていることに気づかされる。連行されるときに笑っていた料理研究家は無実であったし、保育士は決して子供を害してなどいなかったし、小児科医は真実を明らかにしようとする者だった。

 「裁判官はサラリーマンよりサラリーマン」という言葉が真実なのかは分からないが、検察と裁判官とが立場を超えて協力するシーンで元甲子園球児の井出伊織(山崎育三郎)がハードルを跳び越えていった(物理的に)のは、笑いにあふれながらも、『イチケイのカラス』という作品を象徴する名場面ではないだろうか。