感情の揺れ方

それでも笑っていたい

劇評:ジョン・ケアード演出『ジェーン・エア』

 ジェーン・エアは引き裂かれている。その内に「分裂」を抱えている。その「分裂」を乗り越え、ジェーンがアイデンティティを手に入れる。それがこのミュージカル『ジェーン・エア』なのだ。

 父と母を亡くし、孤児となったとき。伯母のミセス・リードに引き取られ、ローウッドで「うそつき」のレッテルを貼られたとき。親友のヘレン・バーンズをチフスで失ったとき。ジェーンはその身に「分裂」を抱えることになった。親子という繋がりが断ち切られ、真実の無意味さを知り、「赦し」を教えてくれたヘレンが若くして天国へ旅立った。ジェーンはまさしく「引き裂かれた」が、その「分裂」を表現する演出が印象に残っている。あくまでもジェーンの精神的な、内側の問題である「分裂」を舞台上に、観客が見える形で表現するためにジョン・ケアードは、ジェーンを主体と客体とに分けた。「分裂」させた。換言すれば、「見る」ジェーンと「見られる」ジェーンとに引き裂いたのである。ジェーンが自身の幼少期を語るとき、彼女がその視界に捉えているのはまさしく幼いジェーンその人であり、ヘレンとジェーンの悲劇を正面から見据えるのものまたジェーンその人なのである。そして他の登場人物もずっと、「ジェーンを見るジェーン」を見ている。ジェーン・エアは常に「見られて」いる。コロスのような役割を引き受ける登場人物に、自分自身に。ジェーンが舞台上にほぼ出ずっぱりという点も印象的だ。いやむしろ、舞台袖にはけている時間の方が長い、という演者はいないのではないか。ジェーンはこの物語の主人公であるのに、舞台上に独りとなることはなかった。なかったのだ。この作品を実際に観た人は「いやそんなことはなかった」と、数少ない場面を思い浮かべるかもしれない。しかし、同時に思い出して欲しい。客席から「視線」を送る私たちの視界に、ジェーン・エア以上にずっと映っていた存在がいたはずなのだ。そう、「オンステージシート」の観客である。観客でありながら舞台上に引き上げられた彼らの視線は、各演者と同じレベルでジェーンに注がれる。いや、その客席が上方に設けられていることを考えれば、その視線はどちらかと言えば超越者の視線に近いのかもしれない。ジェーン・エアは常に神的な視線をその身に受けながら「赦すこと」を学び、実践していく。ジョン・ケアード氏の演出は、キリスト教的な意味においても興味深いものがあった。

 各出演者のパフォーマンスも素晴らしかった。ジェーン・エアとヘレン・バーンズはダブルキャスト、しかも役替わりというチャレンジングなものになっている。私が観た上演会は上白石萌音ジェーン・エア、屋比久知奈がヘレン・バーンズだったが、両者の演技、歌唱は力強く、ジェーン・エアを通して原作者シャーロット・ブロンテの生き様や苛烈さを感じさせるに十分なものだった。エドワード・ロチェスターを演じた井上芳雄の立ち居振る舞いは、ある意味支離滅裂な彼の行動にいくらかの説得力を持たせるに足るものだった。春野寿美礼樹里咲穂・仙名彩世・春風ひとみら、宝塚歌劇団OGの面々はさすがの一言。原作小説とは展開に違いが見られたが、その部分の脚色も上手かったように思う。

 コロナ禍に出口が見えてきた(ということになっている、だけだとしても)昨今、演劇業界がこのような素晴らしい作品とともに再び盛り上がってくれることを願ってやまない。