感情の揺れ方

それでも笑っていたい

2018年月組公演『THE LAST PARTY~S.Fitzgerald's last day~フィッツジェラルド最後の一日』─月城かなとの持つ細やかさ─

 1920年アメリカ、狂乱のジャズ・エイジ。人々は歌い、踊り、不可能など存在しないかに思われた栄光の時代。その象徴として生き、挫折を背負いながら死んでいったスコット・フィッツジェラルド。そんな彼の波乱に満ちた人生を描くのが、植田景子作・演出の『THE LAST PARTY』だ。2004年に月組宙組で初演、 2006年にも再演され、2018年には月城かなと主演で月組での公演が行われた。

 この公演は宝塚大劇場東京宝塚劇場で行われる、いわゆる「本公演」ではない。東京では日本青年館ホールで、大阪ではシアター・ドラマシティで上演された、ファンの間で「別箱」と呼ばれることもある公演だ。別箱公演には本公演と違った特徴があり、個人的な印象にはなるが、別箱では「実験的な」作品が上演されることが多い。それは脚本であったり出演者であったりと様々だが、こと『LAST PARTY』において特徴的なのはその演出ではないだろうか。

 まず物語は冒頭、1940年12月21日、ハリウッドにあるシーラ・グレアムのアパートから始まる。椅子に腰かけるスコットは痩身で、その身体は病に蝕まれている。1940年12月21日──、この日、スコット・フィッツジェラルドは心臓麻痺で命を落とし44年の生涯に幕を下ろす。スコットは椅子から立ち上がり、語り出す。なぁスコット、もう時間はないぜ、君が本当に欲しかったものは一体なんだ、と。主演の月城かなとが演じるのは、スコットではない。厳密に言えば、スコット・フィッツジェラルドだけではない。スコット・フィッツジェラルドが人生を通じて求めたものを知るために彼の生涯を演じる誰かが、この作品の主人公なのだ。いわばこの作品は二重構造になっている。スコットの人生は、劇中劇と言ってもいいかもしれない。パンフレットの配役表には、「TSUKISHIRO/スコット・フィッツジェラルド─月城かなと」「MITSUKI/ゼルダフィッツジェラルド─海乃美月」と、二つの役名が記載されている。これはスコットをデビューに導いた編集者のマックスウェルや、スコットの最期をともに生きた愛人のシーラ・グレアムといった主要人物だけでなく、精神科医や批評家、公園の学生など名前のない登場人物にも同じ表記がなされている。彼はスコット役のTSUKISHIROであり、狂言回しなのだ。TSUKISHIROからスコットへの問いかけは続く。

 Dear Scott
 時計の針は前へ前へと進み
 残された時間はあとわずか
 Dear Scott
「こんなことしてる場合じゃないぜ」
 Dear Scott
 もう一度君の心が知りたい
 君の全て 激しく生き求め続けた
 アメリカンドリーム
「あと二時間 盛大なパーティ 君が本当に欲しかったものは」
 Dear Scott
 もう一度君のため Last Party for You

  時代は1920年代、ジャズ・エイジの始まりに巻き戻る。貧困の中育ったスコットには、成功や名声、アメリカンドリームへの執着があった。その強すぎる感情はいつしか「僕には何かがある」という信念を生み、スコットは無限の可能性を持つ「紙とペン」に憑りつかれていく。セント・ポールに住む青年であったスコット・フィッツジェラルドは『楽園のこちら側』を書きあげ、編集者マックスウェルの尽力もあり華々しい文壇デビューを飾る。

 ある晴れた日 僕は思う 人生は美しく
 希望は誰にも 決して消えることない
 光のささない朝はない
 LIFE このてにつかむ LIFE この世のすべて
 LIFE 夢と栄光に満ちた That's My LIFE
 明日 晴れた朝 世界は僕を呼ぶ
 LIFE That's My LIFE That's My LIFE
 Beauty and Happiness and Dreams are Coming
 Beauty and Happiness and Dreams are Coming
 My LIFE
 明日晴れた朝 世界は僕のもの

 一夜にして時代の寵児となったスコットは、彼の「夢の女」であったアラバマジョージアの二州に並ぶ者のない美女ゼルダをニューヨークに呼び寄せ結婚する。ハンサムな人気作家と彼が描く小説のヒロインのモデル、ジャズ・エイジを生きるフラッパーガールのシンボルである美貌の妻はニューヨークで踊るように生きていく。

 しかしスコットは次第に、時代を象徴する売れっ子作家として生きたいという思いと、本格派の「芸術作品」たる長編を書きたいという思いの間で揺れ始める。その一方でゼルダもまた、フラッパーとして、そして「スコット・フィッツジェラルドの妻」ではない形で生きたいという思いを強くし始め、「You are Me, I am You」と歌い合った二人は互いの苛烈さからぶつかり始めた。そんな中、スコットとゼルダはすべてをやり直すべくニューヨークに喧騒を離れ、南仏のリヴィエラに居を構える。スコットは次の長編『華麗なるギャツビー』の執筆に作家生命のすべてを懸けて打ち込んでいく。そんなスコットの姿に言い知れぬ不安を感じたゼルダは、彼女に想いを寄せる海軍士官のエドゥアールと密かに親密な間柄になっていく。スコットはゼルダの異変に気付きつつ、その疑念すらも作品に描いていく。しかしついに二人の密会現場に遭遇し、スコットはゼルダを激しく攻め立てる。彼の言葉に絶望したゼルダは、スコットの睡眠薬を手に取り服毒自殺を図る。彼女は一命を取り留めたが、永遠に癒えない傷を眺めながら二人はリヴィエラを去った。

  『華麗なるギャツビー』を書きあげたスコットは名実ともにアメリカ一の作家となったが、彼の仕事には次第に翳りが見えつつあった。そしてついに1929年、ウォール街の株価大暴落が起こり世界恐慌が始まる。狂乱、狂騒のジャズ・エイジが終焉を迎え、その時代と分かちがたく結びつけられたスコット・フィッツジェラルドの輝かしい人生の第一幕も閉じようとしている。妻のゼルダは精神に異常をきたし、自らが見出した作家ヘミングウェイの登場がスコットの脅威となる中、ゼルダの治療費と一人娘スコッティの学費を稼ぐため望まぬ短編を書き続ける日々を送り、彼は酒に溺れていく。

   

 この作品を通して印象的なのは、舞台装置やセットの簡素さだ。フィッツジェラルド作品の文章に四方を囲まれたような舞台セットからは「スコットが、そして彼と過ごした人々が彼の作品から逃げられないこと」を端的に表現しているように感じる。そして植田景子の執念、あるいは執着、─それはフィッツジェラルドのそれにも似たところがあるが─を感じさせられるのが、徹底的に椅子とテーブルだけを使用した演出である。セント・ポールでもニューヨークでも、そして南仏のリヴィエラでも、使用される道具は椅子とテーブルだけだ。椅子とテーブル、そしてペンと紙などの「ものを書くための道具」だけがそこにはある。椅子に座る、椅子から立つといった至極単純な動作を執拗なまでに繰り返すという点も印象的だ。スコットにとって「椅子に座ること」は、紛れもなく「彼の文学に向き合うこと」である。『楽園のこちら側』『華麗なるギャツビー』『夜はやさし』、そして『ラスト・タイクーン』。椅子に座ることでしか、彼は自分自身と向き合うことが出来ない。そしてまたゼルダにとっても、「椅子に座ること」は「スコットの文学に向き合うこと」である。だからこそ、ゼルダは座ることが出来ない。ニューヨークにおいてゼルダは「スコットの金を使うことでしか自分を表現できない自分」に苦しみ、リヴィエラでは「自分にはないスコットの才能」に苦しむ。椅子に座らないこと、立ったままでいることで、ゼルダはスコットの文学から目を逸らしているのだ。

 私はあなたの仕事に嫉妬する あなたは私に嫉妬する

    しかし第二幕の終盤、スコットが自分の誕生日にスコッティと公園でダンスを踊る場面に続くシーンで、一人の学生がスコットの小説が持つ美しさを、そうとは知らずスコット本人に語る。スコットはそれを立ったまま聞き、「頑張れ頑張れ小さなキツネ」t自らを鼓舞するのだが、このシーンではスコットが「立ったまま」自らの文学に、つまりは「今までとは違う形で」向き合っているのである。この作品自体がこの場面のためにあると言っても良いような、素晴らしい場面だ。

 この場面では学生がスコットの小説で描かれているジャズ・エイジに特有の人物像が今となってはリアルでなく、現実的な感触を抱くことが出来ないと語るのだが、それはスコット・フィッツジェラルドという作家を語る際には避けて通れない問題だろう。小説だけでなく、音楽や美術あるいは学問、思想においてもそれが生まれた時代の評価と、後世での評価に隔たりが生まれてしまうことは珍しくない。特にフィッツジェラルドのように、作家自身が生きた時代とその作品が密接であった場合、その傾向は顕著に現れるのではないだろうか。事実、『華麗なるギャツビー』は1930年代には絶版になった時期すら存在したという。『THE LAST PARTY』というこの作品には、そうしたジャズ・エイジでもがき、苦しみながらも生き抜いた人々、換言すれば「失われた世代」の作家たちそして彼らとともに生きた人々への愛と敬意に満ちている。夢を追う青年時代から巨万の富を得てなお自分の思う「真の芸術」を追い求める姿、名声を失いながらも妻と娘に安寧な生活を送らせようと身をやつす晩年と、スコット・フィッツジェラルドという人間の生涯を誠実に描いているし、そもそもこのスコット・フィッツジェラルドの半生を劇中劇として構成している「二重構造」はそのためにあるのではないかと思う。1940年12月21日にスコットが死ぬ場面を丁寧に静かに描いたあと、登場人物たち、つまり登場人物たちを演じた役者たちは彼らのその後を語り出す。ゼルダの人生をMITSUKIが、ヘミングウェイの人生をAKATSUKIが、シーラの人生をYURINOが。これはつまり、ジャズ・エイジを彼らとともに生きた人たちだけでなく、時代のバイアスに関係なく、後世の人たちが彼らをどう評価したのかをこの作品で描かなければならなかったからこその二重構造ではないだろうか。ジャズ・エイジとその終焉という時代の波に翻弄された作家たちに対する植田景子の敬意がそこにはある。

 そんな演出家の期待に応えるかのような、月城かなとのパフォーマンスはすばらしかった。彼自身がもつ端正な美しさはスコット・フィッツジェラルドという人間の苛烈さと危うさを表現するのにはうってつけであり、細やかで丁寧な演技力はスコットとTSUKISHIROの切り替えにこちらがハッとするほどの域だった。

 ヒロインのゼルダを演じた海乃美月も、元来存在感のある娘役だったが、この作品でさらに一皮剥けたような印象がある。早くから抜擢が続いた彼女であるが、個人的に彼女の魅力は成熟した大人の雰囲気にあると思っていて、享楽的なゼルダがふとした所作に滲ませる妖しさと儚さを非常に上手く表現していた。

 ヘミングウェイ役の暁千星は出番が少なく、登場に対する期待も大きかっただろうと察するが、スコットと対比される若さゆえの力強さを表現するパフォーマンスは見事だった。

 編集者として彼を支えたマックスを演じた専科の悠真倫や、スコット最後の恋人、母親として彼を支えたシーラを演じた憧花ゆりの、憧れのあまりにスコットのもとを去ることになった秘書のローラを演じた夏月都などのベテランはスコットへの愛を丁寧に演じていて、素晴らしかった。その一方で英かおとや菜々野ありと言った若手も確かな力を発揮していた。とりわけ先述の公園のシーンで学生を演じた風間柚乃のパフォーマンスには拍手を送りたい。

 植田景子の演出が光ったのは、17人という少ない出演者がそれぞれに全力で演じきったからこそだろう。当時の月組が持つ力を感じさせる作品だった。