感情の揺れ方

それでも笑っていたい

感想:月組公演『グレート・ギャツビー』

 美しいものを見て自然と涙がこぼれるという経験をしたことはあるが──太陽を反射する春先の通り雨、エル・グレコがキャンバスに刻んだ騎士の忠誠、オナガドリのはく製──舞台に立つ人間の、それも、ただスポットライトを反射する後ろ姿を見てその美しさに涙するという経験は初めてだった。舞台人として、男役として、トップスターとして、月城かなとはその境地に立っている。

「私がギャツビーです」

 冒頭、ウェスト・エッグの邸宅で毎週末に開かれるパーティの場面。禁酒法を気にもかけない面々をかきわけて現れる屋敷の主ジェイ・ギャツビー。完璧と言っていいほどの立ち姿と発話に、それを引き立てる演出。2008年の日生劇場公演は組子全員が出演していたわけではなく、迫力を前面に押し出すような演出は目立たなかったが、今回は本公演ということもあってより派手な、あの時代特有の喧騒に引き込まれる。その中にあって嫌に落ち着いた、それでいて不穏な雰囲気を抱えるギャツビー。誰もが知っている『グレート・ギャツビー』が舞台に再現されるのだ。

「ささやきとシャンペンと星に囲まれ、蛾のように飛びかった」

              ──『グレート・ギャツビー』より

 1920年アメリカ、狂騒のジャズ・エイジ。ニューヨーク郊外の新興住宅地ウェストエッグに、謎の資産家ジェイ・ギャツビー(月城かなと)の住む大邸宅があった。そこでは誰でも自由に参加できるパーティが開かれ、禁酒法下にもかかわらず各界の著名人──警視総監までもが──シャンパンとワインに溺れていたが、歌い踊る客の誰一人、ギャツビーの正体を知らなかった。ギャツビー邸の隣にある小さな家に引っ越してきたニック・キャラウェイ(風間柚乃)はその様子に驚いきつつ、宴が終わった朝、庭続きの突堤にたたずみ対岸を見つめるギャツビーその人に声をかける。向こう岸のイースト・エッグに誰かいるのか。そう問われたギャツビーは「永遠の恋人」が住んでいるのだと答える。ニックはそれを聞き、イースト・エッグには又いとこのデイジー・ブキャナン(海乃美月)と、その夫で大学の同窓生トム・ブキャナン(鳳月杏)が住んでいることを明かす。ギャツビーの顔色が変わる……。デイジーこそ、ギャツビーが胸に秘め続けた「永遠の恋人」その人だったのだ。二人の間を繋ぐものをようやく見つけたギャツビーは心を震わせる。

   

 この作品は叶わぬ愛の物語であると同時に、果たせぬアメリカン・ドリームの物語でもある。デイジーの両親に娘との交際を拒否されたのち、ときに危ない橋も渡って巨万の富を築き上げたギャツビーは「叩き上げの立身出世」の象徴であり、アメリカ独立以前から続く家系のデイジー、そしてトムは「由緒正しい家柄」「アメリカの貴族」の象徴である。イースト・エッグとウェスト・エッグの間が入り江で隔てられているのは、ギャツビーとブキャナン一家の間に決して超えられないものがあることのメタファーであり──この空間的な広がりを持ったコントラストが作品を重厚なものとしている。デイジーとギャツビー、そしてトムとギャツビー。対比される人物の中にあって興味深いのは、やはり「灰の谷」の描写とジョージ・ウィルソン(光月るう)の存在だろう。「灰の谷」はロングアイランドからマンハッタンへ向かう途中にある、空き地兼ゴミ処理場のような土地で、ジョージはそこでガレージ業を営みながら妻のマートル(天紫珠李)と暮らしている。マートルはトムの愛人の一人であり、ジョージはそのことに薄々勘づきながら、二人でカリフォルニアには引っ越す計画を立てている。イースト・エッグが古い価値観や家柄の、ウェスト・エッグが活力と新しい富の象徴であるなら、「灰の谷」は不倫や貧困、そして死の象徴だろう。「金で願い事を叶えた街」ニューヨークとウェスト・エッグを繋ぐ「灰の谷」はつまり、地続きの存在なのだ。すると悲劇的な結末を迎えるこの物語にあって、ギャツビーとジョージの間には相似の関係が見えてくる。愛し合いながらも報われぬギャツビーとデイジー、マートルへの届かぬ愛に苦しむジョージ。富を築き上げたギャツビーと、引っ越しの費用すらトムに頼るしかないジョージ。表面上は対照的な二人だが、彼らはともに「持たざる者」なのだ。二人を繋ぐ、「持たざる者」の狂気。対岸に輝く緑の灯を眺めるギャツビーと、眼科の看板に神の眼を見るジョージとの間に、一体どんな違いがある?神の眼に眼鏡がかけられているのは、結局人々が本当のことを何も見ていないことのメタファーなのだ。

『神は見ている 人が何をしたのか

 正しい者と間違った者の

 違いを正しく 知っている

 神の眼は誤魔化せない 欺けはしない』

     ──「神は見ている」より

 ここからは各出演者に焦点を合わせたい。月城かなと・海乃美月についてはもはや言うことがないのだが──やはりスコット・フィッツジェラルド作品の中に生きるのが上手い。いやむしろこの二人のいるところがフィッツジェラルドの世界になると言った方が適切かもしれない。彼こそがギャツビーであり、彼女こそがデイジー。ラストシーン、ギャツビーの墓に薔薇を手向けるデイジーの抑制された表現力には引き込まれる。トム・ブキャナンという、いわば悪役を担う鳳月杏の演技には円熟味があった。「アメリカの貴族」という存在の鼻持ちならなさをしっかりと抽出している。そしてニックを演じた風間柚乃は頼もしくなってきた。もともと芝居巧者ではあるものの、若さを感じさせないパフォーマンス。そしてプロゴルファーのニックの恋人になるジョーダン・ベイカー役の彩みちるは組替え以来一皮も二皮も向けた印象があるが、今回もタフな役どころを演じきっていたように思う。娘役で言うなら、天紫珠李も今までとは違う魅力を光らせていた。ギャツビーの仕事仲間でアウトローの一人ウルフシェイムを演じた輝月ゆうまと、ギャツビーの父親を演じた英真なおきはこれこそ専科という立ち姿、演技力。アウトローの面々で言えば、スレイグル役の蓮つかさはいわゆる「クズ」ながら常に清潔感を漂わせていて良かった。そしてやはり、ジョージを演じた光月るうのパフォーマンスがなければ、この作品はここまで素晴らしいものにはならなかっただろう。あの「狂気」。同じく「持たざる者」であるギャツビーとは違った種類の「狂気」を身に纏い、眼下の看板に神を見る──見るだけではなく、果てには神の代わりを務める「狂気」。出演者全員の代表作と言っていいほどの傑作。世界的名作をミュージカルに仕上げる小池修一郎氏の手腕にも拍手を送りたい。