感情の揺れ方

それでも笑っていたい

「推し」が生む「ファン」の変化について

 

第一章「『推し』という言葉に伴う変化」

 「推し」あるいは「推す」という言葉、概念が市民権を得て久しい。好きなアイドルやタレント、漫画・アニメのキャラクターなどかねてから「応援の対象」であった存在に対してだけでなく、学校の同級生や会社の同僚に対しても使われるようになった。その変化は、「応援する」「ファンである」という言葉がカジュアルに使われるようになったことだけを意味するのではない。「推す」概念の出現によって応援する側にも、応援される側にもある変化が起こり、「応援」はより厳密な、苛烈なものとなった。結論を急げばそれは、「ファンを名乗るためには条件をクリアする必要があり、その条件は応援される側が設定する」というものである。ファンという称号はまさしく与えられるものであり、自称するものではなくなったのである。

 

第二章「変化の内実」

 インターネット、特にSNSの出現によってファン同士、ひいては「推し」本人との双方向の交流が可能となった結果、ファンの間にひとつのルールめいたものが誕生した。「ファンは推しの活動を支えなければならない」である。そんなこと当たり前じゃないかと感じる人もいるだろう。しかしより適切な表現をするなら、「ファンは推しを『支援』しなければならない」となる。「支援」とはつまり「対価を払うこと」、つまるところ「お金を落とすこと」と表現していいだろう。「推し」をただのコンテンツとして享受することは許されない。「ファン」と名乗りたければ。例えばテレビやラジオ、あるいはTwitterなど、お金を払うことなく楽しむことが出来る場で「推し」を見ているだけでは、決して「ファン」と名乗ることは出来ない。その視線、その行動で、「推し」の活動に対価が支払われることはないからだ。スマートフォンを持つことだけが許された地方都市の学生がSNSの更新を、週に一度の深夜ラジオを拠り所として生きているだけでは、好きと言うことも、「応援している」と言うことも許可されない。「ファン」の称号は与えられない。誰によってか。別の「ファン」に否定されるだけなら、まだ救いはある。しかし現代において、その断罪は「推し」の手によって下されるのである。このルール、「支援しなければファンではない」は先述した、「推し」がSNSなどの場で自らの意見を表明する機会が多くなったことによって生まれた、「ファン」由来ではない、「推し」由来のルールであることに特徴がある。もちろん活動の中心をテレビなどの媒体としている「推し」と、SNSなどのソーシャルメディアとしている「推し」との間には、事務所などの存在に関する給与体系の大きな違いが存在するが、ルールに基づいた断罪はどちらの場合にも行われる。前者では「ファン」同士の、後者では「推し」本人から行われることが多い。

   

 

第三章「『支援』の在り方と飛躍する『ファン』」

 さまざまな方向から求められる「支援」には、いくつかの在り方が存在する。まずは最も基本的な、とにかく金銭を使うという方法である。具体的にはとにかくグッズ、プロダクトに対価を払うことで、「ファン」と名乗ることが許される。いわゆる「スパチャ」などがこれにあたり、「課金」という言葉でひとまとめにされることもある。
 二つ目は非常に現代的な、かつ問題を孕んだ方法である。それはつまり「『推し』を有名にする」、「『推し』の宣伝をする」という「支援」である。「ファン」はすでにある「推し」の活動に対して対価を払うだけではなく、「推し」を有名にすることで、未だ見ぬ未来の「推し」の活動を創出するという役割を担うこととなった。休み時間の教室、会社の休憩時間、あるいは各種SNSのタイムラインにおいて、「ファン」は宣伝をする。ひとつの人格を背負って、「仕事」をする。私の「推し」はこんな人で、こんなに素晴らしいんだと、ビラを配る。かくして「推し」と「仕事」をかけて使われていた「推し事」はメタファーの領域を超え、まさしく「仕事」となった。これが「推す」という言葉が生み出した変化の中で最も巨大なもの、つまり「ファンのスタッフ化」である。「ファン」は「ファン」であるために「スタッフ」としての役割を担わなければならないという袋小路に迷い込む。選別を通過した「ファン」は「スタッフ」の名札を与えられ、群体を抜け出た個人となる。

 

第四章「『ファン』の『スタッフ化』が生む弊害』

 「ファン」の「スタッフ化」それ自体に問題があるのではない。ここまで述べたことはすべて変化の内実であって、その是非を問うものではない。先の章で私が「問題を孕んだ」と表現したのは、そういった点を考慮してのことである。
 まず第一の弊害は、「『推し』の宣伝」に伴って生まれる。それは多くの宣伝が、著作権を無視した無断転載によって行われるという問題である。「推し」を宣伝するためには、まず「推し」を知ってもらわなければならない。だから「推し」の写真を、あるいは「推し」の作った作品を見せる。極めて自然な流れだが、それが日常的な対面でのやり取りを超えて、つまるところ全世界を射程に収めるインターネットで行われると、話は変わってくる。いわゆる「無断転載」が、極めてカジュアルな形でTwitterInstagramなどにあふれている事実と「布教」の精神は、無関係ではないだろう。
 第二の弊害は、「ファン」が群体ではなく個体となったことに伴う、「階層化」である。「ファン」は「支援」の度合いで分類される。無論かつても、アイドルのファン組織に階層は存在したが、現代のそれはより克明な、鮮烈なものだろう。序列は、課金額で決まるのだ。誰が最も「推し」の活動を支援し、貢献しているのか。「ファン」の視線は「推し」だけでなく、別の「ファン」にも向けられることとなる。2000年代後半から2010年代のエンタメシーンを席捲したアイドルグループ、AKB48の生み出した「総選挙」というシステムはその最たるものであり、投票券を手に入れるために買い集められたCDの山が部屋中を埋め尽くす写真がインターネットにアップされることは少なくなかった。その潮流は現在に至るまで流れ続けている。近年では課金額を競う、競わせるオーディションを目にすることも増えてきた。例えばある雑誌が表紙モデルをオーディションで探すとなったとき、複数の候補者に一定の期間中ライブ配信をさせ、その中で「ファン」からの課金額が最も多かった候補者を表紙に抜擢するという流れは珍しくない。失敗を恐れるあまり、プロの「スタッフ」が自分たちの負うべき責任を「ファン」に背負わせるケースだが、選ばれなかった「推し」と「ファン」とを不当に傷つけるだけのやり方だと言わざるを得ない。「推し」やその周りのプロが向き合わなければならないのは、一人で活動を支えることの出来る富豪だけではない。
 第三の、そして最後の弊害は、「ファン」が過激化することである。「推し」と「ファン」双方向のコミュニケーションが可能となったこと、「ファン」が「スタッフ」となったことで、「推し」と「ファン」とは必然的に衝突する。物理的な場面はもちろん、特にインターネットにおいて、「ファン」は「推し」に注文をつけるようになった。ヘアスタイルはこうした方がいい、その衣装はダメだ、今日のパフォーマンスは、そういう心意気じゃやっていけない。彼らの口からこういった言葉が飛び出すのは、「こんなに金を落としたんだから」と思っているからではない。無論それもあるが、それだけではない。彼らは自分のことを「スタッフ」だと思っているのである。「スタッフ化」した「ファン」を襲う、「正しさ」の誘惑。「推し」を「正す」ことの優越感。「コレクト・シンドローム」の一種だが、詳細は以下のエントリーに任せる。自らにとっての「正しさ」を押し付ける「ファン」が「推し」と衝突するという事態は、珍しいものではなくなった。

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