感情の揺れ方

それでも笑っていたい

「正しさ」の誘惑についての所見

 

第一章「『correct』に至る『collect』」

 およそ現代の日本において、「コレクト」という言葉を耳に、あるいは目にしたときに連想されるのは「コレクター」や「コレクション」といった、「collect」に由来する言葉ではないだろうか。「collect」は「(物などを)集める」「収集する」という意味を持ち、その通り日本語で言うところの「コレクター」はさまざまな物品を蒐集する人のことを指す。切手や硬貨などはもちろん、ポピュラーなもので言えば応援しているアーティストのグッズや好きなアニメのBlu-ray、漫画ならたとえそれが100冊以上あったとして、そのすべてを手元に集めるのが「コレクター」の行う「コレクト」という行為である。
 では、なぜコレクターは蒐集するのだろうか。「蒐集するからコレクターなのだ」という定義上の話をしているのではなく、コレクターがコレクターとなる所以や原動力に目を向け、考えてみると、そこに一つの仮説が浮かんでくる。蒐集の対象が手元にある状態が、それも完璧な形態で──コミックで言うなら第一巻から最終巻まで揃った形で──手元に存在する状態が、彼らにとって「正しい」からではないか、という仮説である。ものを集めるということに付随する、個々人にとっての「正しさ」。ここに「collect」と「correct」の密接な関係を見ることが出来る。「correct」には「正しい」という形容詞としての意味と、「訂正する」「(誤りを)指摘する」という動詞としての意味がある。その「正しさ」が次第に「collect」から離れ、ある種の欲望を掻き立てる「correctの誘惑」へと変化するのではないかというのが、本論の主題である。

 

第二章「『正しさ』への欲望」

 まず現代を、一定の倫理コードが広範な教育と発達した情報通信技術によって大多数の人間に共有され、かつ各人が持つ各々の内的倫理規範を外部に発信できるようになった時代と仮定すると、現代において「正しさ」は勝ち得るものになった。さまざまメディア、SNSといった会場で倫理規範はステージに上げられ、大衆によって点数をつけられている。「正しさ」のコンテストは連日連夜、いたるところで開催されている。このような状況において「正しさ」への欲望が、「正しさ」の誘惑が強くなることは、なんら不思議ではない。
 その欲望は倫理的な正しさだけでなく、多くの場面で我々を誘惑する。ステージを降りた日常の場面場面──例えば、種々のコンテンツを享受する、極めて私的かつ内的な行為の際中であっても、我々は誘惑される。誘惑され、這いずり出される。解釈というものがそうであるように、およそ「感想」というものに正解は存在しない。厳密に言えば、「唯一の正解」は存在しない。そこに漬け込まれる。「正しさ」の誘惑に手を引かれ、私たちは甘美なる「考察」の陥穽に横たわる。「正しさ」を求めて辿り着く先が「批評」ではなく「考察」であることは皮肉だが、そこにはこの時代、あらゆる人々が発信者となる時代に生まれたひとつのルールが関係している。発信者は他者を傷つけてはならない。特にコンテンツの「感想」を発信するとき、そのルールは厳格なものとなる。この規範が現代において「正しさ」を勝ち得たとき、批評家の権威は剥ぎ取られ、地に落ちた。かつてあった情報の優先権は今や消え失せ、彼らが武器としていた自らの客観性はもはや鈍ら以外の何ものでもなくなった。それはその客観性が、ただ支配的であるというだけの、換言すれば権威を有していたということのみによって支えられていた客観性だからである。圧倒的な多数派が求める「正しさ」は、批評家の有していたそれではない。

   

 

第三章「『考察』とはなにか」

 インターネットには、あらゆるコンテンツに対する「考察」が存在する。漫画やアニメ、映画はもちろん、ドラマ、コント、果ては人間の一挙手一投足に至るまで、「考察」は対象を解体し、繋ぎ合わせ、「説明」を与える。この人物がこの場面でこの発言をしたのは……、この画角、この構図……、第三話での伏線が……。その発見が「考察」に権威を与える。発見はSNSで拡散され、共有され、私的な領域を抜け出し公的な価値を──「考察」に「正しさ」の王冠を授ける。人々が、いや我々がその王冠を支持するのは、「正しさ」に誘惑されるからというだけではない。恐怖にさらされているからである。「正しい理解をしなければならない」という恐怖が、コンテンツを解体するメスの刃を研ぐ。本来は多様であったはずの「感想」は、解剖図に沿ったものとなる。「この作品はこうだから面白い、すごい」。そこで受け手は個人ではなく、匿名化された大衆となる。「唯一の正しい解釈が存在するのではないか」というアキレス腱に、再び無影灯の光が当てられる。
 しかし最も大きな問題は、我々が誘惑に負けて幻想に飛びつくことではない。問題は、「正しさ」の誘惑が先の章で述べた規範──「他人を傷つけてはならない」──を、自らが王座に就く所以となったその規範を、なかったものとすることにある。コンテンツを正しく享受したいという欲望は私的な、享受する自分自身へと向けられるもののはずである。しかしインターネットは、その欲望を容易く外部へと向ける。コンテンツを解体するはずのメスは、他者へと向けられる。「正しくあれ」という誘惑によって、「コレクトする人々」が誕生する。彼らが活動する場面は、コンテンツへの解釈や感想に限らない。解釈や感想だけではなく、他者の在り方そのものを変えようとすることさえあるのだが、それにはすでに「パターナリズム」という名前が与えられているので、仔細は省略する。もちろん私が「コレクト・シンドローム」と仮に呼んでいるこの「解体癖」のようなものとは、重ならない部分も存在する。厄介なことに彼らは、「他者の不正を指摘するために自らの正しさは必要ではない」ということに気が付いているのである。「正しさ」を勝ち得ることを捨て、ただ他者の不正をあげつらうことだけに力を注ぐタイプの人々は、確かに存在する。自らも赤信号を渡りながら、同じように赤信号を渡る人に、後ろ指を指すような人間が。