感情の揺れ方

それでも笑っていたい

映画『罪の声』監督:土井裕泰 脚本:野木亜紀子

 野木亜紀子の、怒り。痛烈なまでの怒り。この世界には唾棄すべき邪悪があり、その被害に苦しむ人たちがいる。それは決して「臭い物に蓋をする」などという行いで見過ごすことの許されるものではない。「声をあげる」こと。「あの人は自分だったかもしれない」と考えること。野木亜紀子の怒りは物語を観賞する私たちだけにではなく、物語を「創る」人間たちにも向けられていて、だからこそ観る者の心をえぐる。 

 この物語は、京都でテーラーを営む曽根俊也(星野源)が父親の残した古い箱の蓋を開け、一本のカセットテープを見つけるところから始まる。そのテープに録音されていたのは、35年前に日本中を震撼させた「ギンガ・萬堂事件」で使われた脅迫メッセージだった。俊也はなぜ父親がこんなものを持っているのかと疑問に思ったが、すぐあることに気付く。その脅迫メッセージを読んでいるのが、他の誰でもない自分自身であるということに。自分や父親が事件にかかわっていたのかと俊也が思い悩む一方で、大日新聞の記者である阿久津英士はすでに時効を迎えている「ギンガ・萬堂事件」を扱う特別企画班の一員として、取材を重ねていた。それぞれが事件を追いかけていくうちに、俊也の他にもふたりの子供が脅迫メッセージに「声」を使われていたことが明らかになる。やがて出会った俊也と阿久津は、そのふたりの子供が今どこでどうしているのかを突き止めることを決意するのだが──。

   

 物語全体を通して登場するモチーフに、「橋」や「川」がある。俊也の営むテーラーはまさしく川沿いに位置しており、事件に巻き込まれた自分以外の子供たちを調べていく中で俊也と阿久津はいくつもの橋を渡っていく。高速道路、明石海峡大橋相生橋、戎橋、果てはイングランド北部の都市ヨークまで。物語序盤で俊也が懐石料理を食べていたのは、窓の風景から察するに鴨川沿いの飲食店だろう。取材、調査を進めていく中で阿久津と俊也は様々な土地を訪れていて、一見すると「橋」や「川」はふたりがどれだけ長い「距離」を移動しているのか、換言すれば「横軸の長さ」を印象付けているように思われるが、その実「橋」のモチーフはふたりが「過去」へ旅していることを表している。阿久津と俊也は、「橋」を渡ることで35年前という遥かな「過去」と、さらには政治闘争の時代であった1970年代と向き合っているのだ。真実が、脅迫メッセージに声を使われたふたりの子供である生島望(原菜乃華)と弟の聡一郎(宇野祥平)の半生が明らかとなるにつれて、俊也の胸にひとつの思いが去来する。自分だけが幸せな人生を歩んでいていいのか?と。ついに探し出した生島聡一郎の人生、そして現在は悲惨と表現する他なかった。学校に行くことも、就職することも、家族と過ごすことも彼には不可能だった。ただ本人の意思とは無関係に「声」を使われただけで、人生を粉々に打ち砕かれてしまった人がいる。それなのに自分は父親から家業を受け継ぎ、結婚して子供にも恵まれている。時間によって解決されない問題が、呪いがある。事件から35年という月日が過ぎてもカセットテープにはその「声」が記録されている。その「声」がある限り、宿命を背負わされた子供たちが救われることはない。そしてなにより、人の「記憶」や「感情」は消えることがない。俊也の叔父である曽根達雄(宇崎竜童、川口覚)と母親の曽根真由美(梶芽衣子阿部純子)の中にあった復讐の炎は決して消えることがなかった。だからこそ彼らは「奮い立った」のだ。『罪の声』は、日本中を震撼させた事件に関わった、関わるしかなかった人たちの「声」を通して、決して「大衆」ではない個人個人の「記憶」や「感情」を紐解き、正義とは何か、あるいは罪とは、救いとは何か?といういくつもの問いを観る者に投げかける。

 香港の学生運動SNSを通じて行われる真偽をないがしろにした情報の消費。「日本で初めての劇場型犯罪」とうたわれるあの事件を題材にしたこの作品は、しかし現代に蔓延るいくつもの問題と密接な関係を持っているように思われる。阿久津英士が上司に食って掛かるシーンで放たれる「曽根俊也を、この事件をエンタメとして消費することになりませんか?」というセリフは、ジャーナリズムの在り方を問うているようでいて、情報を発信するすべての人間に向けられているのだ。

 星野源小栗旬を始めとして個々の出演者全員の演技が素晴らしかったが、生島聡一郎を演じた宇野祥平のパフォーマンスと曽根真由美役の梶芽衣子に心からの拍手を送りたいと思う。終盤、すべてを知った俊也に真由美が言った「奮い立ったんやろね」というセリフを忘れることはないだろう。