感情の揺れ方

それでも笑っていたい

2019年星組公演『アルジェの男』─柴田侑宏の人間賛歌と、それに応える礼真琴─

 野望に生きたジュリアン・クレールは最後に愛を知ることが出来たのかもしれない。しかし、友情を知ることは最後までなかった。

 柴田侑宏作『アルジェの男』は1974年に初演、以来1983年と2011にも再演、2019年には礼真琴を主演に据え星組で上演された。物語は第二次世界大戦前、フランスの占領下にあったアルジェリアとパリを舞台に、孤児として育ちながらも大きな野望を抱いて成功への道を駆け上がろうとする青年ジュリアンの生き様を描く。

 主人公のジュリアン(礼真琴)は大抵の悪事をこなし、アウトローを生きてきたアルジェリアのちょっとした顔役だ。子分や仲間たちを引き連れて、彼は歌う。

『泥にまみれた俺の青春 暗い惨めな俺の青春

 今俺は海に漂う小舟 今俺は嵐に舞い散る木の葉

 今俺は霧に閉ざされたともしび

 いつかきっと いつかきっと

 大きな夢を見つけよう

 いつかきっと いつかきっと

 陽の当たる道を上って行こう

 輝くような黄金の道を たわわに実る黄金の果実を

 きらきら光る 黄金の旨酒を

 この手で この手で 掴もう

 この手で この手で 掴もう』

    ─「ジュリアン・クレール」

 ジュリアン・クレールは、野望に満ちた人間だ。しかし彼の野望は、具体的なものではない。アルジェリアの下町で悪事に手を染めながら生きているジュリアンは、日々を生きるのに精一杯で、そもそも「大きな夢を見つける」ことが必要だった。彼には、「黄金の果実」「黄金の旨酒」を手に入れるという、ある種曖昧な野望を抱くことしかできない。現状を抜け出してやるのだという強い思いだけが彼を動かしている。だがひとつだけ、ジュリアンには目標があった。それは「アルジェを出て、パリに行くこと」。そしてその野望は、思いもよらぬ形で果たされることになる。ある日、悪友のジャック(愛月ひかる)がジュリアンにある賭けを持ち掛けてくる。なんでもアルジェを治めるボランジュ総督(朝水りょう)がジュリアンたちが根城にしている下町を訪れるらしく、総督から財布をスルことが出来るかどうか、というものだった。ジュリアンはサビーヌ(音波みのり)に止められるが、ジャックの口車に乗ってしまう。

 そしてその夜、路地を通りがかった総督夫妻を待ち伏せていたジュリアンは、すれ違いざまに総督の胸元へと手を伸ばす。しかし総督はジュリアンの手を掴む。スリは失敗してしまったのだ。ジュリアンはナイフを取り出し戦うが、総督には手も足もでない。観念するジュリアンを、総督は自らの邸宅へと連れていく。

 続く邸宅での場面は、この『アルジェの男』において最も重要な場面ではないかと思う。ここでジュリアンは、自分が今までの人生では出会わなかったタイプの人間と出会い、そしてその「出会い」は最後までジュリアンの人生を方向付けるものなのだ。ジュリアンは、「越えられない人間」と出会う。それは、ボランジュ総督ではない。ジュリアンが「越えられない人間」、あるいは「そうなるべきであった人間」とは、総督の婦人、ルイーズ・ボランジュ(白妙なつ)だったのではないだろうか。それは「お金がある」とか、そういう簡単で即物的なことではない。総督婦人は、愛を知っているのだ。それも、とびっきりの「慈愛」を知っている。彼女は自分たちを襲ったジュリアンを「スリさん」と呼び、彼が落としたナイフをわざわざ拾い、手渡す。そればかりかジュリアンを邸宅に連れていくという自分の夫に何も言わず、ジュリアンのために食事を用意させる。その食事も召使いに任せきりにするのではなく、自らの手で、彼のために選ぶのだ。初対面で、身分も全く違うジュリアンに真正面から向き合う。ジュリアンの知らない「愛」を、彼女はすでに知っている。

ジュリアン「あんたの奥さん、すこしおかしいのか」

総督「あれの良さは、お前には分かるまいな」

 このやり取りは、どこまでも重い。夫人の良さをジュリアンが知ることは、最後までないのだから。総督は娘のエリザベート(桜庭舞)にジュリアンを紹介した後、彼に「自分の運転手をやらないか」と言う。ジュリアンに自分と似た者を感じた総督は、「栄光に近道などありはしない」と彼を説き伏せ、ジュリアンは総督に食らいついていくと心に決めるのだった。総督についてパリへ行くと言うジュリアンを、サビーヌは引き留めなかった。

サビーヌ「心のどこかに、愛の住む場所だけはあけといてね」

ジュリアン「あいにく、俺には愛ってやつが分からねぇ」

 時は流れ、5年後。マリア・シャルドンヌ(万里柚美)のサロンで開かれたパーティに、ジュリアンはエリザベートと参加していた。初対面の夜には挨拶すらまともに出来なかったエリザベートと踊り、軽口まで叩くジュリアン。その姿にはアルジェの頃の面影はなく、洗練された男になったジュリアンは、一躍パリの社交界で有名な存在になっていた。パーティの喧騒から離れ、紫煙をくゆらせる彼のもとに、ひとりの女性が現れる。アナ・ベル(小桜ほのか)と名乗る彼女はマリア・シャルドンヌの姪であり、唯一の肉親だった。盲目の彼女を心配するマリア・シャルドンヌはジュリアンにこう告げる。

「もしあの子を幸せにしてくれる男性が現れたら、

 私はその方のためにどんなことでもしてあげるつもりです」

  ─マリア・シャルドンヌ

 世話係のアンドレ(極美慎)に連れられて帰っていくアナ・ベルを見送ったあと、ジュリアンは友人のミッシェル(紫藤りゅう)たちに連れられて、パーティを抜け出しパリの下町へ向かう。長いパリ生活で初めて下町を訪れた彼だったが、そこで驚きの再会を果たすことになる。やってきたナイトクラブには、サビーヌがいたのだ。ステージから降りた彼女を追って楽屋へ行くと、そこにはサビーヌばかりかジャックまでもが待っていた。あなたの経歴に傷をつけたくないからと、パリに来たことを何年も黙っていたサビーヌ。しかしジャックはジュリアンをつけ狙い、彼を脅迫して金を要求する─。

   

 クラブを後にしたジュリアンを待っていたのは、ミッシェルだった。彼は、ジュリアンの様子がおかしいことに気付いていたのだ。アルジェの知り合いにあったことを正直に話すジュリアンに対して、ミッシェルは「君の経歴は総督に聞かされて知っている」と答える。そして彼はこう続ける。

「有能のやつが常にまっすぐ歩いてきたとは限らない。

 それくらいのことは私も知ってるよ」

「私は君が好きだ。私にはない、炎のようなものを持っている君と、

 いつまでも友達でいたいと思っている」

「困ったことが起きたら、なんでも言ってくれ」

 これが一体、「友情」でなくて何だと言うのだろうか。サビーヌ、総督夫妻、そしてミッシェル。彼らの思いに、ジュリアンは答えることが出来るのか。気を取り直して二人で飲もうかというミッシェルの誘いを断って、ジュリアンはひとり夜の街を歩く。するとそこに、偶然エリザベートたちが通りかかる。かねてから噂になっていたジュリアンとエリザベートだったが、ちょうどいい機会だと彼女は友人たちに宣言する。私たちは決してそんな仲ではないと。

エリザベート「あなたは人を愛さない」

ジュリアン「いつかきっと君を跪かせてみせる」

 自らの野望を再確認したジュリアンは、赤い薔薇*1を手に「ジュリアン・クレール」を再び歌う。そして最後に、その薔薇を握りつぶす。「愛」を打ち捨てるかのごとく、「情熱」を再び燃やすかのごとく。

 陽の当たる道を上っていこうとするジュリアンは、アナ・ベルの屋敷を訪れる。エリザベートに見せつけるかのごとく、ジュリアンはアナ・ベルを愛すフリをする。「あなたはもっと自分の価値を知るべきです」という彼の言葉は、「私にとって価値があります」という意味に他ならない。そして、エリザベートの心中は穏やかではない。彼女はようやく気付く。自分がジュリアンを愛していたことに。「愛」を捨てたジュリアンに、もはや邪魔なものは何もなかった。エリザベートとの結婚を決めた彼を見て、アナ・ベルは絶望し、パリを離れる。

アナ・ベル「私はとても悲しいけれど、あの方を恨めないのよ」

 ジュリアンの躍進は止まらない。ボランジュ総督が外務大臣に就任すると同時に、彼とミッシェルも二等書記官へ就任することになる。しかし、そこにジャックが現れる。ボランジュ総督の就任を喜ばないミシリュー内相に雇われたジャックは、再びジュリアンに取引を持ち掛ける。それは、ボランジュ総督とサビーヌを引き合わせ、その写真を撮る手助けをしろというものだった。こんなところで邪魔をされてたまるかとジュリアンは銃を携えて、ジャックの待つ楽屋へと向かう。響く銃声。しかしジャックを打ったのはジュリアンではなく、サビーヌだった。ジュリアンを守るため、自らの人生をささげようとするサビーヌ。そこでようやくジュリアンは気づく。知る。「愛」のなんたるかを。自首しようとするサビーヌの手を取り、どこまでも二人で逃げようと言うジュリアン。

「哀れみはやめて」

「違うんだサビーヌ、俺は何か大きなもの、大切なものを忘れていたような気がする、栄光を目指していたことが一度に色褪せて、今とてもむなしい気持ちに襲われている」

「一時の感情に惑わされてはいけないわ」

「これはそんな一時のものではなく、ずっしりした手応えのあるものだ。栄光の中にしか求めるものはないと思っていた、今俺はやっと、本当の愛というものが分かったような気がする」

 ─ジュリアン、サビーヌ

 サビーヌの手を取り、逃げようとするジュリアン。しかし、彼の体を銃弾が貫く。凶弾の射手は、世話係としてアナ・ベルに寄り添い続けたアンドレであった──。

 こうして物語は終わる。ジュリアンは最後に、本当の愛とは何かを知った。しかし、彼が知ることの出来なかったものがある。それはやはり友情であり、そして自分以外の人間が、自分以外に向ける愛だった。ジャックに脅されたとき、彼が手に取ったのは銃だった。ミッシェルの「困ったことがあったら何でも言ってくれ」という言葉を思い出すことはなかった。ともに二等書記官になったことを心から喜んでくれたミッシェルのような友など、アルジェにはいなかっただろうに。それでも彼は自分しか信じることが出来なかった。最後まで。ただサビーヌの手を取り、逃げることしか出来なかった。総督夫人にような「慈愛」を知ることはなかった。夫人が「あなたはジュリアンを愛しているのよ」とエリザベートに伝えることが出来たのは、彼女が自分以外の人間が持つ「愛」のなんたるかを知っていたからだ。ジュリアンはそれを、最後まで理解出来なかった。だからこそ、アナ・ベルのことを愛していたアンドレによって、引導を渡されたのだ。

 柴田侑宏の描く人間賛歌は、時代を超えて観る者に問いかけてくる。愛とはなにか、友情とは何かと。その問いに説得力を持たせる礼真琴のパフォーマンスには、素晴らしいものがある。そして、青く若いジュリアンを包み込むようなサビーヌを演じた音波みのり、友として彼を支えようとしたミッシェルを演じた紫藤りゅうの演技も良い。特に紫藤りゅうの持つノーブルな雰囲気が役柄にうまくフィットしているように思う。総督夫妻を演じた朝水りょう、白妙なつの表現力も素晴らしい。エリザベート、アナ・ベルという、ジュリアンの人生に深く関わる女性を演じた桜庭舞、小桜ほのかという星組を支える娘役の活躍も見逃せない。そして最後の場面でのカゲソロや、場面場面で圧倒的な歌唱力を披露している遥斗勇帆にも言及しなければならないだろう。全国ツアーという少人数公演とは思えない、素晴らしい作品である。

 

 

*1:赤い薔薇の花言葉は「愛」「情熱」