感情の揺れ方

それでも笑っていたい

映画評『ジョーカー』─アーサー・フレックの黄昏─

 DC映画というと、私はクリストファー・ノーラン監督の『バットマン・ビギンズ』から始まる『ダークナイト』、『ダークナイトライジング』の三部作くらいしか観ていない。それもリアルタイムの上演を観ていたわけではなく、数年前にレンタルで済ませたくらいのもので、決してアメコミとかDCのファンではない。それがどうして今回のトッド・フィリップス監督作品『ジョーカー』を見ようと思ったのかと言えば、やはり「ジョーカー」というキャラクターに魅力を感じるからだ。ジョーカー。彼の設定やシリーズでの立ち位置に関する詳細な説明は省く。そこは問題ではないし、何よりこの映画『ジョーカー』は「ジョーカーの誕生」を描く物語なのだ。これまでのシリーズに登場したジョーカーにふれる必要はないだろう。『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーのパフォーマンスが私は大好きなんだとか、病院爆破のシーンはヒースのアドリブじゃないって言ってんだろってこととか、それくらいでいい。

 この映画、前評判がとても高かった。傑作という評価はもちろん、ヴェネツィア国際映画祭では金獅子賞を受賞するなど批評家たちも諸手をあげて絶賛しているような印象があった。それどころか本国アメリカでは映画館に警察が配置されるなど、特に若年層への社会的な影響すら懸念されている。いやそこまでか?なんて思っていたけれど、劇場で実際にこの映画を観て、その理由が分かった。今作のジョーカー、とても共感しやすいのだと思う。もっと言えば、「共感した気になりやすい」のだと思う。ホアキン・フェニックス演じる主人公のアーサー・フレックは認知症の母親を自宅で介護するかたわら、スタンダップ・コメディアンになるという夢を叶えるべく派遣のピエロとして働いている。幼いころからの障害により、感情が高ぶると本人の意思に関係なく笑いだしてしまうという症状を持っているが、福祉サービスによる薬の提供でなんとか抑えられている。アーサーの生きる現実はどこまでも不条理だ。1981年のゴッサムシティは治安が悪化、清掃局のストライキが長引き、街の雰囲気は悪い。アーサーも仕事中に路上でリンチを受けてしまう。夢も仕事も生活も、明るいことはひとつもない。1981年のゴッサムシティを満たす人々の苦悩は、なぜか2019年の日本と繋がってしまう。繋がっているように感じてしまう、と言った方が正しいのかもしれない。私たちにそう思わせるホアキンの演技は、悲痛だ。アーサーの笑い声、笑顔、そこに見え隠れする渇き、湿り、いら立ち。その違いをまざまざと見せつけるホアキンのパフォーマンスは圧巻という他ない。彼が見せたアーサー・フレックの痛々しさもまた、観客の共感を誘発する一因だろう。同僚に半ば押し付けられる形で手に入れた拳銃を仕事中も携帯してしまうアーサーの弱さもまた、こちら側に響く。その弱さのせいで彼は仕事をクビになり、帰宅途中で最初の事件が起こる。地下鉄の車内で、笑いの発作が起きたアーサーに絡んできたウェイン産業の社員を三人、射殺してしまうのだ。それも執拗に、電車を降りて逃げようとする相手までも手にかける。ウェイン産業を経営するトーマス・ウェインは社会保障を切り捨て、アーサーの受けていた福祉プログラムを廃止した張本人でもあった。アーサーを揺さぶるのはそれだけではない。かつて母親がトーマス・ウェイン邸で働いていたことから彼女がしきりに差し出していた支援を求める手紙の内容を、彼は読んでしまう。そこには母親がウェインの愛人だったということが書かれており、自らがウェインの息子であるということが示唆されていた。衝撃を受けたアーサーはウェイン邸を訪れたり、劇場に忍び込んでウェイン本人に直接話を聞くが、そのどれもが芳しくない。ウェインには殴られてしまう。失われた父性を求めるように見えるアーサー、そしてチャップリンの『モダン・タイムス』を観て笑う上流階級。しかし彼らの目にアーサーは映っていない。失意のアーサーは30年前に母親が入院していた病院を訪ね、診察記録を盗み見る。そこには母親が若いころから精神病に侵され、アーサー・ウェインのことを恋人だと思い込んでいたこと、アーサーは養子であり本当に父親に虐待を受けて障害を患ったことが記されていた。この時期に彼はマンションの隣人と恋仲になっていたが、それすらも自らが作り上げた妄想だったことが明かされる。発作を起こし入院している母の病室に設置されているテレビには、彼が目標とするコメディアン、マーレイの番組が流れていた。するとあろうことか、先日アーサーが舞台に立ったショーパブの映像が放送され、画面には彼が映し出される。狂喜乱舞するアーサー。しかし現実は彼を突き放す。発作を起こしながらもネタを続ける彼を、マーレイは嘲笑したのだ。アーサーは転がっていく。どこまでも。母親、自分を陥れた同僚。ピエロのメイクを施し、笑うように殺していく。くすんだワインレッドの古ぼけたスーツに身を包み、それまでずっと昇っていた階段、あるいはエレベーターを降りて、落ちていく。しかしそれは下の階級に身を落とすとか、そういうことではない。言うなれば天使が空から降りてくるかのように、彼は階段を降りる。ジョーカーが、地上に降り立つのだ。階段で踊り狂う場面でジョーカーが纏っている圧巻のオーラ。それまでのつましいアーサーとは全く違う雰囲気、空気感。ホアキン・フェニックスには脱帽する。最初の殺人、そしてマーレイの番組出演のためにテレビ局へ向かう地下鉄で起こした銃撃騒動の影響がゴッサムの民衆を扇動していく。警察の追手を逃れるために乗客から奪ったピエロのマスクをゴミ箱に捨て、ジョーカーは行く。その時、ジョーカーが誕生したのだ。すなわちジョーカーが生まれ、アーサー・フレックが死んだ。ジョーカーの誕生は、アーサーの死に他ならない。「殺人ピエロ」に感化されてデモを行う民衆が見ているのは決してアーサーではない。そしてまた、憧れのテレビ番組に出演する彼の姿はまさしくジョーカーであり、自らジョーカーと名乗る。アーサー・フレックはどこにもいない。この物語は「ジョーカーの誕生」を描くと同時に、「アーサー・フレックの死」を描く物語でもある。

 ただ中盤で恋人の存在が彼の妄想であったことが明かされるように、アーサーは「信頼できない語り手」なのである。むしろこの物語のすべてが、アーカム精神病院でジョーカーが語った空想という可能性すらある。その「揺らぎ」。その揺らぎもまたこの作品の魅力のひとつだろう。

 この作品は悲劇か、それとも喜劇なのか。チャップリンを引き合いにだして論じられがちなこの話題だが、私は決して悲劇だとは思わない。悲劇というか、不条理な作品ではないように思う。なんというか、もちろんコメディアンになりたくてもなれないとかそういう要素はあるけれど、特に物語が進むにつれて、アーサーは自分が思うように行動している。ざっくり言えば、「殺さなければいけないから殺す」のではなくて、「殺したいから殺している」のである。若いサラリーマンも、母親も、同僚も、マーレイも。感情の爆発。それに伴う結果の是非は別にして、そこに不条理はない。水が上から下に流れるように、火が絶えず自らを燃やし続けるように。

 この作品には様々オマージュがある。けれど、それは誰か別の人が詳しく解説してくれるだろう。チャップリン、『タクシードライバー』。

  最後に。ホアキン・フェニックスの圧倒的な演技に拍手を。