感情の揺れ方

それでも笑っていたい

細田守監督作『竜とそばかすの姫』

 細田守は、人間を描くことに興味がない。大枠のストーリーや狙いが間違って伝わることがなければ、登場人物たちの人間味やバックボーンが観客にどう解釈されようが、そして自分の描写しなかったところでキャラクターがどう生きていこうが、気にならない。『竜とそばかすの姫』という映画を観て最初に浮かんできたのは、そんな感想だった。あまりにも空虚な登場人物、「現実」と「ファンタジー」のどちらにも軸足を置かないストーリー。このレビューでは「周辺」と「中心」、「孤独」と「疎外」、「寓話」、『美女と野獣』といったキーワードをメインに、『竜とそばかすの姫』についての感想を書いていきたいと思う。

 物語を通して、その始まりから結末に至るまで、主人公のすずは孤独だった。自分ではない他人の子供を助けるため川に流されて母が死んだ幼少期から、一夜にして世界の歌姫「Belle」となり、虐待に苦しむ子供を今度は自分自身が助けたクライマックスに至るまで、すずはひとりだった。言い換えれば、「疎外」されていた。現実における舞台のひとつである高知県の片田舎で、すずは暮らしている。幼馴染みでバスケ部のしのぶは女子から絶大な人気を集め、同級生のカミシンは独力でカヌー部を立ち上げインターハイを目指し、吹奏楽部でアルトサックスを吹くルカは誰からも好かれる人気者。中庭にいる三人の様子を校舎の中からすずが眺める場面はまさしく「中心」と「周辺」の構造を示している。現実世界では周辺に追いやられるすずは、しかし仮想世界「U」の中では歌姫「Belle」としてみなの「中心」に立つ。冒頭、空飛ぶクジラの背に乗ってベルが歌い、観客(群衆)が取り囲むというシーンは、現実と仮想空間の対比、そして内藤鈴というキャラクターのもつ二面性を鮮烈に描いている。だが、「中心に立つこと」はすなわち「孤独であること」でもある。描写を見る限り、しのぶにもルカにもそれぞれの「孤独」がある。もっと分かりやすいのはカミシンで、彼は明らかに周囲からはすこし浮いた存在として描かれる。そして無論、この作品のおいて最も「疎外」されているのはすずである。カラオケでクラスメイトにマイクを向けられるも歌えず、橋の上で嘔吐する場面。そして世界の中心で歌う「U」でさえ、生体認証を行ったうえで作られた彼女のアバター「As」にはルカの容姿があてがわれ、「すず」の要素は頬のそばかすだけという状態もまた、「疎外」に他ならない。『美女と野獣』との類似点が多い本作にあって、『竜とそばかすの姫』というタイトルからは『シンデレラ』との類似点も窺える──一夜にして世界の歌姫となった「Belle」と「すず」とを繋ぐのは「歌声」と「そばかす」である。意地悪な継母に「謎の姫」と「灰かぶりの末娘」とを繋がせたのは、その歌声だった。『美女と野獣』的な演出の多い本作だが、「ファンタジー」と「現実」とのバランスは非常に悪いと言わざるを得ない。中盤から、物語の「中心」は謎の歌姫ベルではなく、「U」の自警団にその存在を追われる謎の「竜」へと移行していく。ここからは『美女と野獣』の模倣ともいえる、寓話的な演出が続く。「竜」の正体はなんなのか。『美女と野獣』とは違い、野獣である「竜」だけではなく「Belle」もまた姿を変え正体を隠す存在であるから根本的な部分に違いがあるという見方もあるが、しかし『美女と野獣』においては野獣だけではなく「姫」の方(どちらも「ベル」なのでややこしい)にも大きな精神的変化があるため、それこそ「寓話」的な部分において本作とは大きな隔たりがあるように思う。「U」のアバターである「As」は生体認証を経て形作られるため、それは心を覆い隠すものではない。「アンヴェイル」するというあのビームを武器にする自警団がずっと「正体を明らかにしてやる」と言うところの「正体」とは、「現実世界での肉体」に過ぎない。

   

 すこし話が逸れてしまった。「竜」の正体は「子供」であり、父親と三人で暮らす兄弟の兄だった。兄弟は父親から虐待を受けていて、兄が仮想空間で最強の「竜」として振る舞っていたのは弟を元気づけるためだったのだ。現実とは対照的な存在として「U」で振る舞う「竜」と「Belle」との類似性が示されていく。ともに母親のいないまま、「子供でいることを許されない子供」として生きてきたこともそのひとつだろう。物語は「竜」とその弟を救う流れへと展開していくのだが、その展開が進むにつれて、「すず」の「疎外」も高まっていく。酷くなっていくと言ってもいい。兄弟を助け出すことを決心し、実際に二人のもとへ向かう場面は、正直グロテスクだとさえ感じた。「二人に信頼してもらうためにはアンヴェイルしかない」と言うしのぶ。「そんなことしたら私が築き上げたBelleはどうなるのよ」と反論するヒロ。「48時間ルール」を説明する児童相談所との電話を切り自ら彼らのところへ向かおうとするすずに付き添うでもでなく、ただ車で駅まで送る「自称母親代わり」の合唱隊の面々。社会への不信と、自己犠牲の礼賛に啞然としてしまう。高知から遠く武蔵小杉へとすずを向かわせたのはおそらく、この作品の「寓話」的な側面を描くため、そして「U」の「Belle」としてではない現実世界のすずが持つ肉体を再び世界へと降り立たせるためなのだと思われるが、しかしその方法は非常にラディカルである。それはすずが、自らもまた「母親」になることによって、なのである。冒頭、すずの母親が中州に取り残された子供を助ける場面と同じく強い雨が降る中、兄弟とすずとは野外で巡り合う。まるでそうなることがファンタジックに決まっていたように。兄弟を追いかけてきた父親から二人を守るすずの姿はまさしくあの時の母親と同じものであり、同時に、父親がすずを引きはがそうとした際に頬から血が流れるさまは、母を失って以来揺らぎ続けていたすずの肉体が再び世界へ定着した瞬間でもある。そんなすずに恐怖を覚えた父親が逃げかえるさまに、母性と神性の顕現(=アンヴェイル)が描かれている。描かれているのだが……この「問題を解決するためにすずが母親になる」という一連の流れは、あまりにグロテスクではないだろうか。「子供でいられない子供」を助けるために、「別の子供が子供でいられなくなってもいい」のか?すずだって、助けられる側ではないのか?助けられた兄弟は、本当に「立ち向かわなければならない」のか?

 大人を意図的に悪く描き、現実の問題に苦しむ子供たちに「仮想空間へ逃げるな」というメッセージを伝えることは、私の好みではない。ペギー・スーの「私と同じじゃん」、父親の「(カツオの)たたき食うか」、ジャスティンのすべてのセリフ。人間味を描こうとしたこれらの言葉は、空虚なものだった。いやむしろ、しのぶとルカの勘違いされた関係、すずとヒロとの間にあるズレ、クラスラインでの冷戦、インターネットを満たす匿名の誹謗中傷などの描写を見るに、細田守は人間は絶対に分かり合えないということを伝えようとしているかとすら思ってしまう。助けられた子供たちや各種スポンサーまでついてた自警団の面々がどうなったかすら描写しないその姿勢に、疑問が残る。歌唱はもちろん、「歌唱」と「発話」との境界線があいまいに感じるすずの演技でも中村佳穂のパフォーマンスは光っていたが、各場面のエモーショナルな感動では覆いきれないほどのしっくりこなさが『竜とそばかすの姫』にはある。