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劇評:ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』

 4月の頭に、梅田芸術劇場で『ロミオ&ジュリエット』を観劇した。このミュージカルは2001年、作曲家ジェラール・プレスギュルヴィックの手によって誕生し、日本では2010年に小池修一郎の潤色・演出で宝塚歌劇団が初演を行った。それ以降も2011年、2012年、2013年と立て続けに上演され、宝塚の人気演目になっている。宝塚での成功を受け、2011年には東宝での上演も開始、2013年、2017年には再演もされるほどの人気を博している。今回の公演は2017年から始まった「新演出版」の再演になり、演出は引き続いて小池修一郎。いずれの上演でもそうだが、『ロミオ&ジュリエット』に関する彼のキャスティングは挑戦的と言っていい。今回こそ2017年版からの続投者が多いが、その2017年版ではミュージカル経験の浅い、あるいは初挑戦という出演者が多かった。ロミオ役の大野拓朗は前回が二度目のミュージカル、ジュリエット役の木下晴香と生田絵梨花は前者が舞台初挑戦、後者も本格的なミュージカルはそれが初めてだった。今回の公演に関して言えば、そういう「挑戦的なキャスティング」で目立つのはやはり舞台初出演の葵わかなだろう。NHKの朝ドラに主演するなど、新進気鋭の役者でありその演技力は確かなものだが、初舞台・初ミュージカルにこの演目というのはカンパニーにとっても彼女にとってもチャレンジングなものになるだろう。

 さて、感想に入る前に私が観た公演のキャストを一覧にしておきたい。この公演、主要な役柄はほとんどがダブル、もしくはトリプルキャストになっているのだ。

 ロミオ:古川雄大

 ジュリエット:葵わかな

 ベンヴォ―リオ:木村達成

 マーキューシオ:黒羽麻璃央

 ティボルト:渡辺大

 死:大貫勇輔

 

 ギリシア悲劇チェーホフ、そしてシェイクスピアといった古典の名作を舞台作品として上演する場合、絶対に考えなければいけないことがあると私は思う。それは、今この現代において、その作品をいかにしてエンターテインメントに昇華するのか、ということである。チェーホフシェイクスピアも、受け継がれるべき名作としての地位は疑いようがない。素晴らしい台詞、練り上げられた筋書きは今私たちが読んでも色褪せることはない。しかし、その美しい言葉たちによる脚本を一つの世界として舞台上に再現するとなると話は変わってくる。例えば『ロミオとジュリエット』も『かもめ』も、本来はというか、元来それらは「戯曲」であって舞台作品として上演されるための物語であった。それが歴史を通じて受け継がれていく中で、「戯曲」ではなく「文学作品」としてのコンテクストに埋め込まれていってしまう。舞台作品に触れるのではなく、文章に、言うなれば「本」としてのシェイクスピアあるいはチェーホフに触れる機会の方が圧倒的に多いのだから仕方ないのだが、「古典の名戯曲」は本来の形から逸脱して受け継がれていく運命にある。今年で言えばシラーの『群盗』が上演されたが、この作品もその例のひとつだ。舞台で、あるいは文庫で『群盗』に触れることは出来ても、「シュトゥルム・ウント・ドラング」が当時帯びていたであろう熱狂的な衝動を体験することは出来ない。同じようにシェイクスピアチェーホフも、彼らが生きていた当時の人々は「歴史的なコンテクスト」など関係なく、劇場に足を運んでいたはずだ。16世紀後半から17世紀初頭のロンドン、そして18世紀末から19世紀にかけてのモスクワやサンクトペテルブルクにおいて、彼らの作品はまさしくエンターテインメントだった。「古典の名作」というコンテクストから物語をどうやって解放するのか。それが問題だ。今、現代において舞台の上にその世界を再現する以上、「過去の物語」に終始してはならない。物語が過去のものであったとしても、それを演じるのもそれを観るのも今を生きている私たちなのだから。この難題に、小池修一郎はかなり独創的な回答を見せる。まず物語の舞台はヴェローナに違いないが、それは「あの」ヴェローナではない。歴史の流れから逸脱したような、中世と近代、あるいは近未来がまじりあったような「ヴェローナ」だ。街には高層ビルが立ち並び、モンタギューとキャピュレットの面々はスマートフォンで連絡を取っているし、ロレンス神父はYoutube(おそらくだが)を参考にして薬を調合している。ロミオはベンヴォ―リオからのLINEを既読スルー、モンタギューの若者たちはピザ屋なんかでアルバイトにいそしむ。変わらないのは、両家の両家に対する憎しみと、ロミオとジュリエットの愛だ。舞台を現代(現代というか、”ネオ香港”というか)に移し、衣装も舞台装置も現代的なテイストを多分に盛り込んだ上で、セリフや芝居の流れはシェイクスピアの原作に寄り添うものになっている。これはなんというか、パンフレットで小池修一郎本人も言及しているが、かなり「キッチュ」な作品と言っていいだろう。あの時代だからこそなしえた「愛の物語」は現代でも通用するのか?という、いわばメタ的な問いかけがそこにある。小池修一郎という演出家は、いつも挑戦的なエンターテインメントを生み出そうとしている。そこが宝塚であろうがなかろうが。

 その難題に応える若い出演者たちのパフォーマンスは素晴らしかった。ロミオ役の古川雄大は舞台映えのするヴィジュアルに、『モーツァルト!!』や『1789』でも魅せた歌唱力で唯一無二のミュージカルスターとしての地位を確立している。ロミオという、どこか頼りない少年の燃え上がるような愛をうまく表現していた。6月から始まる帝国劇場の『エリザベート』は観たくて観たくてたまらないのだが、チケット戦争に敗北してしまった。

 そして今回の公演で最も印象的だったのは、ジュリエットを演じた葵わかなだ。初舞台、初ミュージカルということで正直不安に思っていたのだが、本当に失礼な話だった。ジュリエットというキャラクターは、この物語の核だ。ロミオではない。主人公と言ってもいい。ジュリエットのパワーがなければこの筋書きは成立しない。そのジュリエットに対する彼女のアプローチは見事なものだった。なんというか、ある意味でとてもドライな演技をしていたように思う。望まない結婚も、運命的なロミオとの出会いも、悲劇も、それに巻き込まれるジュリエットの感情はどこまでも「重い」のだが、その表現がくどくなかったのだ。これは、今まで舞台での演技経験がなかったことが上手く作用した結果かもしれない。ジュリエットという少女の心情を表現するにあたって大袈裟な演技をする必要はないと私は思う。どこまでもどこまでも淡々と、そして静かに、恋人たちは死に向かう。ティボルトやマーキューシオたちの燃え尽きるような死との対比だ。絶望は静かに若者の命をさらっていく。葵わかなの演技には拍手を送りたい。歌唱はたどたどしく、言うなればあどけない雰囲気が残るが、これからの可能性を十分に感じさせるものだった。そして、華奢な体に携える天性のヒロイン感。もしも彼女がこれからもミュージカルにこだわってくれるなら、こんなに嬉しいことはない。

 キャストの男性陣の中では比較的若手の木村達成が演じるベンヴォ―リオは、難しい役柄だ。モンタギューの中では穏健な、ロミオ寄りの考えをしているところがあり、ベンヴォ―リオ自身の思想や心情がそれほど強く描かれているわけではない。しかしつぶさに筋を見れば、幼馴染みのマーキューシオは殺され、ロミオはティボルトを殺し、そして連絡の行き違いでロミオまでもが死んでしまうというベンヴォ―リオの心情がただならない状態だということは分かる。そういうキャラクターのどの一面を強調するのかが、演者に委ねられているように思う。彼の演じるベンヴォ―リオは、ロミオに尽くし仲間たちを窘める、誠実な印象だった。

 マーキューシオを演じていたのは黒羽麻璃央。マーキューシオという役もまたベンヴォ―リオとは違ったベクトルの難しさを持っている。ナイフを持ち歩き、キャピュレット家の顔を見ればすぐにでも襲い掛かる、ざっくり言えば頭のおかしい役なのだが、その「おかしさ」を舞台で表現するのは難しい。まず、「声」あるいは「しゃべり方」による「おかしさ」は一見それっぽく感じられるし、説得力もある。だが表現がそれ一辺倒になってしまうと、途端にハリボテのようになってしまう。舞台である以上、声以外の身体で表現しなければならない。歩き方、立ち方…ちょっとした所作や立ち居振る舞いでも「狂気」を滲ませなければ、真に迫ってこない。例えば『エリザベート』のルキーニはその最たる役のひとつだろう。彼の異常さを表現するのに声の演技だけでは全く足りない。では黒羽麻璃央のマーキューシオはどうだったかと言えば、おそらく彼はマーキューシオの狂気的な部分ではなくて人間的な部分に照準を合わせていたのだと思う。「狂気」ではなくて「人間・マーキューシオ」というか。彼がなぜそういう振る舞いをするようになったのか?彼の根源はどこか?そういうことを考えながら演じているというのがよくわかるパフォーマンスだったように思う。

 死を演じた大貫勇輔のパフォーマンスは圧巻の一言だ。あそこまで圧倒的なダンスを見せられると、本当にただ称賛するしかない。筋肉がバッキバキの死ってちょっとおもしろいなとは思ったけれども。 

 これ以上個々の演者にフォーカスした感想を書くと冗長になってしまうので、この辺りにしておきたい。もちろん春野寿美礼や秋園美緒、シルビア・グラブといった面々のパフォーマンスも素晴らしかった。『ロミオ&ジュリエット』には、日本のミュージカル界を盛り上げるという役割にも期待したい。これからも上演を続けて欲しい演目のひとつだ。