感情の揺れ方

それでも笑っていたい

感想:宙組公演『カジノ・ロワイヤル~我が名はボンド~』

 真風涼帆・潤花の退団公演があの『007』、しかもあの『カジノ・ロワイヤル』に決まったという知らせを耳にしたときは、一体全体どうなるんだと期待に胸が膨らんだ。ジェームズ・ボンドという、全世界で愛されるキャラクターを、しかもミュージカルで。ショーン・コネリーか、ダニエル・クレイグか。いや真風涼帆というトップスターなら、彼にしか出来ないボンドを演じてくれるだろう。そんなことを思いながら劇場に足を運んだ、運んだのだが……。

 

 まず、私はダニエル・クレイグの演じた『007』シリーズのファンであるということを前提としたうえでこの感想を読んでいただければと思う。事前情報のない、フラットな視点ではどうしても観劇することが出来なかった。そして観劇後にまず感じたのは、「これなら別に『007』である必要はなかったのでは?」というものだった。舞台設定などは2006年に公開された映画『カジノ・ロワイヤル』(以下『ロワイヤル』)ではなく、1953年に出版された原作小説の方に準拠している。そこに潤色・脚色をしたのが今回の『我が名はボンド』となる。暴論であることは重々承知なのだが、その脚色部分がまったく好みではなかった。潤花が演じたのはヴェスパー・リンドではなくデルフィーヌというロマノフ家の末裔で、『ロワイヤル』には存在しない。ソルボンヌの院生で、反戦運動に参加し社会を変えようとしているという役どころなのだが、個人的には潤花という役者が演じるヴェスパーとボンドのやり取りが見たかった。デルフィーヌの恋人、ミシェル・バローは桜木みなとが演じて、敵役であるル・シッフルとその元恋人で今は片腕を務めるアナベル(天彩峰里)とのこじれた恋愛関係もこの舞台版では大きな要素になっている。なんと言えばいいのか、小池修一郎氏による「宝塚的な」、言葉を選ばなければ「内輪ノリ的な」演出が、とても気になった。「皇帝ゲオルギは立ち上がる」に代表される宝塚パロディ、そして「宝塚的」でなくてもエンタメに寄った演出の数々が、『007』という看板の中身を空虚なものにしている気がしてならなかった。小池氏の「エンタメ的」な演出は、例えば2017年月組公演『All For One』の劇中劇が『反撃の巨人タイタン』というタイトルだったり、『THE SCARLET PIMPERNEL』でパーシーとマルグリットの心が通じ合う瞬間のそれだったりと枚挙に暇がなく、うまく作品全体を魅力的なものにすることもあるのだが、今回は良い方向には転んでいなかった。

 もちろん、いろいろな事情があることは分かる。『ロワイヤル』に寄った脚本にすると登場人物があまりに少なく、ほとんどの組子にセリフがなくなってしまう。『007』をそのまま再現したところで、ある意味「宝塚で上演する意味」がなくなってしまう。けれど、それでも、ボンドが注文する数々のドリンクに関する演出はもうちょっとどうにかなったのではないかと思うし、どうしても『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』と比べてしまった。

 ただこのような点をまったく気にしなければ、つまり「この『007』は宝塚歌劇団宙組の『007』だから」と完全に割り切ってしまえば、おもしろく観劇できるとは思います。