感情の揺れ方

それでも笑っていたい

カン・ヒョンチョル監督作 映画『スウィング・キッズ』

 傑作が誕生した。新たな疫病の流行、アメリカに端を発する人種差別問題の再燃、ポリティカル・コレクトネス。これらがエンターテインメントに与える影響は大きすぎるほど大きく、誰の目にもつかない場所で死んでいった何か、誰かは確実に存在するだろう。しかし「ポリコレに縛られて物語を創ることは出来ない」、「人種を超えて演じることは出来ない」という文言が海底を、宇宙を経由して世界を飛び回る中で、この『スウィング・キッズ』はその戯言を一笑に付す。物語ること、踊ること、歌うこと。そのすべてがこの作品に生き生きと輝いている。

 朝鮮戦争の状況を伝えるニュース映像から物語は幕を開ける。1950年に始まった朝鮮戦争は、始めこそ北朝鮮と韓国との戦いであったが、ほどなくして中国とアメリカを巻き込んだ代理戦争の様相を呈していく。その中で発生したのが、大量に発生する捕虜の収容問題である。国連軍、すなわち南側の資本主義勢力はそれを解決するために巨済島(コジェド)に大規模な捕虜収容所を建設した。この捕虜収容所が、物語の舞台だ。そしてその収容所で生活する人々のバックボーン、主義信条は多様さに富む。管理は米軍が、警備には韓国軍が。北朝鮮軍や中国軍はもちろん、北朝鮮に協力した民兵から強制徴兵された民間人、アカ(共産主義者)の烙印を押されてしまった南側の避難民まで、そこには多種多様な立場の人間が集まっていた。主人公のロ・ギスは(D.O.)は北朝鮮軍、シャオパン(キム・ミノ)は中国軍、カン・ビョンサム(オ・ジョンセ)は避難民だ。さらに米軍の後を追って島に流れてきた「ヤンゴンジュ」と呼ばれるパンパン、売春婦も大勢おり、ヤン・パンネ(パク・ヘス)もその一人だった。

 北と南、共産主義と資本主義。各々の抱える「イデオロギー」がこの収容所に様々な問題を産み落としていた。根っからの共産主義者が存在する一方で、ただ報復を恐れて共産主義者のふりをしているだけの捕虜も少なくない。強制徴兵された民間人に至っては、そのほとんどが反共主義か、どちらでもなかった。米軍は当初捕虜をイデオロギーで分けて収容していたが、そのうち何の区別もなく収容し始める。このことが、戦争の影に隠れたいくつもの悲劇を生んでいく。

 およそ70年前(厳密には今も戦時中だが)の出来事である朝鮮戦争はもはや過去のことであり、特に若い世代にとっては教科書でしか見たことがないようなものだが、この映画は当時の悲惨を私たちへストレートに提示する。見せつける。「イデオロギー」の対立だけで人間と人間が剥き出しの殺意を向けあう様を、それによって流れる血を、映し出す。共産主義者たちは反動分子、すなわち裏切り者をあぶりだすために手段を選ばず、南側に残ることを希望する者たちもまたアカたちをリンチしていく。およそ一切の希望がイデオロギーの前に倒れていく状況にあって、ひとつの希望…あるいは祈りが浮かび上がる。ダンスだ。タップダンスが、人種・言語・イデオロギーを超える道具として浮かび上がる。前線の英雄として活躍する兄を持つ収容所のカリスマ的存在のロ・ギスはある日、元ダンサーである米軍下士官のジャクソンがタップを踊る姿を偶然目にする。それからというもの、彼は心臓の鼓動が高鳴るのを感じていた。そんな折、ジャクソンは野心に満ちた新所長のダンス公演プロジェクトを半ば無理やり担当させられることになり、メンバーのオーディションを始める。紆余曲折を経て集まったロ・ギス、ヤン・パンネ、カン・ビョンサム、シャオパン、そしてジャクソンたちは次第に結束していく。踊ることを通じて。

 しかし、タップダンス、つまりアメリカのダンスを踊るということはロ・ギスにとってただ踊るということ以上の重みを持っている。英雄の弟である自分が、アメリカのダンスを踊っていいのかという葛藤が、彼を貫いている。そもそも彼にとって、いやこの作品にとって「ダンス」とは何なのだろう。先述したようにそれは希望であり、祈りである。だが、「ダンス」は決して手段ではない。道具ではない。ロ・ギスもジャクソンも、踊ることが持つ根源的でプリミティブな「喜び」を求めている。彼らが踊るのはダンスバトルに勝つためでも、公演を成功させて家族のもとに帰るためでもないのだ。だからこそロ・ギスとジャクソンは言葉ではなくダンスで通じ合う。同じ「喜び」を知る者同士として。踊っている間だけ、彼らは対等なのである。ダンスは、あらゆる壁を越えていく。この作品の中で印象的な演出に、足元だけを映すカットが多用されることがあるように思う。ダンスシーンはもちろんそれ以外でも、特にキャラクターが初めて登場するときにはほぼ必ずその人の足だけが画面に切り取られている。冒頭で新所長が小間使いに靴を磨かせるシーン、ギスの兄が収容所に連行されるシーンなど、「足」に関する場面は数えきれない。歩くとは何か、そもそも私たちはどこから来てどこへ行くのかという問いかけが、「ダンス」を通じて示されている。

   

 ダンスが希望であり祈りであり、言語を介す必要のない共通の「喜び」であることはまた、いくつものダンスシーンで描かれている。

 スウィング・キッズと米軍のジェイミーたちが真っ向勝負を繰り広げるダンスバトルシーンはもちろん、「踊っている間は誰もが対等であること」を鮮やかに描き出す。この場面に限らず、この作品における「パフォーマンスシーン」はすべてが素晴らしい。どこかキッチュで夢のように作られた映像は「ダンス」のもつ力を余すところなく表現する一方で、戦争の悲惨さとのコントラストを生み出している。ダンス、音楽、演出のそれぞれが完璧に絡み合ったパフォーマンスシーンの数々はそれだけでもこの作品が語り継がれる理由になるだろう。このバトルシーンでは1988年に発売されたチョン・スラの『歓喜』をバックに、ジャクソンを除いたスウィング・キッズ初めての群舞が繰り広げられる。『マイケルジャクソン/beat it』のオマージュと思しきダンス・バトルを皮切りに、観る者はこの映画に飲み込まれていくはずだ。蛇足かもしれないが、ジャクソンのフルネームは「M. JACKSON」と表記されている。

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 言及しておきたいパフォーマンスシーンがあとふたつある。まずは終盤、ロ・ギスとヤン・パンネがそれぞれに感情を爆発させる場面。抑圧された現実と叶わない希望との間で揺れる感情を描くダンス・シーンで流れるのはデヴィッド・ボウイの『Modern Love』だ。タップシューズを履き、誰もいない講堂を飛び出して収容所内を疾走するロ・ギス。「これは魔法の靴なんだ」とタップシューズを掲げ、村中を練り歩いて全力で踊るヤン・パンネ。ずっとこのイントロが流れていればいいのにと思わせるほどに素晴らしいシーン。

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 そしてやはり、クライマックスでありハイライトを飾る、スウィング・キッズのクリスマス公演のシーン。ベニー・グッドマンの『SING,SING,SING』をバックに進む彼らのパフォーマンスは、すぐそこに迫る悲劇の予感をかき消すかのような熱を持って進んでいく。つかの間のカタルシス。戦争のさなかにあってなお、希望を語ることの意義。惨禍に対して、私たちはどう向き合えばいいのか。パフォーマンスの始まる直前、ジャクソンが語る言葉こそが、今を生きる人間に向けられている。

 ”ここにはさまざまな人間がいます。戦争がなければ天才振付師だった者。カーネギーホールを揺らしていた者。(中略)……Fucking Ideology.”

 ビートルズの『Free As A Bird』がバックに流れるエンディングクレジットを見ながら、思う。「戦争がなければ」というジャクソンの祈りは、今現在も果たして「祈りのまま」だ。戦争がなければ有り得た未来は、いつまでも「もしも」のままだ。朝鮮半島ひとつを例にとっても、その状況は彼らの時代から何一つ変わっていないと言っていい。作品の中で描かれる差別もまた、決して過去のものにはなっていない。ジャクソンの「Fucking Ideology」を胸に、私たちは未来の可能性を現実のものにする方法を考えなければならない。この傑作『スウィング・キッズ』は戦争の悲惨を突きつけると同時に、未来へのメッセージを伝えてくれている。

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