感情の揺れ方

それでも笑っていたい

羽海野チカ『ハチミツとクローバー』~才能を持ってしまった者たちの苦悩~

 羽海野チカは「才能を持ってしまった者」の苦悩を描くのが上手い。『3月のライオン』の主人公桐山零はまさしく将棋の才を与えられて"しまった"少年だ。『3月のライオン』が「才能を持ってしまったがゆえに苦しむ者たち」を描く物語であるなら、「才能を持ってしまったがゆえに苦しむ者」と「才能を持っていないことに苦しむ者」との対比を描く物語が『ハチミツとクローバー』である。そしてこの作品において、「才能を持つ者」は花本はぐみと森田忍だ。

 はぐみと森田はともに「芸術に愛された者」でありながら、パーソナリティの部分において対照的なキャラクターである。森田はまさしく天才肌と言うべき人間で、その有り余る才能はあらゆる分野で発揮される。彫刻、日本画では浜田山美術大学*1の教授陣を持ってして絶賛され、CGではアメリカの映画賞を獲得するなど、「美術にすべての力を注げば…」と苦言を呈されるほどの才能を持つ。しかし他人の持ち物を平気で売ってしまったり、後輩である竹本*2の口座から勝手に現金を下ろすなどその奔放さは枚挙にいとまがない。言ってしまえば変人なのだが、だからこそ大学では有名人で、それゆえに人望もあるという人物が、森田忍だ。

 その一方で、はぐみには絵しかない。工芸は苦手で森田のように万能ではなく、臆病で人付き合いが苦手ゆえ物語の序盤においては他の学生たちとコミュニケーションを取ることにも苦労する。竹本たちと出会うまでは友達さえもいなかった。そんな花本はぐみの「天才性」は、次の場面に集約される。

小さい頃 一度だけ神様を見た

(中略)

この「絵を描く」ということだけが 

「私」を「守り」「生きさせて」くれたんだ

そう思った時 雨降りの窓の外が ぼうっと

金色に光り出したように見えて…

──そうして私は話しかけたのだ その光に

「もしも私が描くことを手放す日が来たら」

「その場でこの命をお返しします。」

──と……

あの時 私は「約束」をかわしたのだ

──たしかに

目には見えない 私の神さまと

 はぐみには、絵を描くことしかないのだ。大きな賞を獲る、海外へ留学する、大金を稼ぐ、そんなことは関係ない。ただ彼女が彼女の神さまとの「約束」を果たすため、そして生きていくために、花本はぐみは絵を描き続ける。だからこそ彼女は、いつの間にか「天才」と呼ばれるようになっていた。神様との約束という観点で言えば、『3月のライオン』の桐山零もまた将棋の神様と契約を結んでいる。彼もまた、生きていくためには将棋しかなかった。将棋をするしかなかったのだ。「与えられてしまった才能」と神様との関係というテーマは、羽海野チカの作品を貫くもののように思える。『物語シリーズ』などで知られる西尾維新との対談において、羽海野チカは「才能」に関してこう述べている。

才能と言われるものを、何かどこにでも行ける切符のように思っている人がいる

      ─西尾維新対談集『本題』より

 

「持っていたら他のことが何もできなくなる人生になってしまうよ」というのが「才能」という感じですね

      ─同上

 「才能」とは万能のチケットではない。いやむしろ、戻ることの出来ない片道切符なのだと、彼女は言う。そしてその「才能」を持ってしまった人間が、花本はぐみだ。森田忍は対照的に万能の天才だが、同じ天才として彼女に興味を持ち、好意を寄せていく。その気持ちはきっと、「好き」というものだったはずだ。命を削るかのように絵を描く彼女を最も評価していたのは森田忍だろう。自分が描きたいものではなく、「賞を獲るための作品」を描くはぐみを見て、彼は花本修司*3にこう詰め寄る。

アンタ分かってんだろ
アイツはもっとデカイ場所で生きてくべき人間だって
世界中の誰もが美術館に行けばいつだってアイツに会えるんだ
100年経っても300年経っても 自分が死んでも
ずっと生き続けられるモノを作れんだぞ!? アイツは

 声を荒らげる森田に対して、修司は言う。

かもしれん だが それ以外何も残らん人生になる
美術史に名前の残ってる女性の作家がどんだけいる?
その中で幸せな人生を送れた人間がどんだけいる?
どんだけ描いても何も残らんかもしらん
それでも手を休めるコトはできん
一生心が休まるコトがなくなるかもしれん
それを果たして幸せって呼べるんだろうか

 命を削って絵を描き続けた先に、果たして花本はぐみには何が残るというのか。そんなことが、彼女にとって幸せなのだろうか。そもそも「幸せ」とは何なのだろう。花本はぐみや、森田忍にとって。いや、『ハチミツとクローバー』という群像劇において、「幸せ」とはどういう風に描かれているのだろう。

 

 

 『ハチミツとクローバー』を貫く大きなテーマは2つある。それは「才能」と、「片思い」だ。はぐみと森田が「才能」の部分を担っているとしたら、「片思い」を担っているのは竹本や山田あゆみ*4、真山巧*5といった面々だろう。竹本ははぐみを、山田は真山を、真山は原田理花を、それぞれ想っている。むしろ『ハチミツとクローバー』が丁寧に描いているのはこの「片思い」の方かもしれない。山田の気持ちに気づきながらも理花のことが好きでたまらず、しかし煮え切らない態度を取り続ける真山や、自分の思いが遂げられることなど一生ないことを理解しつつ、それでも真山のことが好きでたまらない山田。羽海野チカ独特のモノローグで語られる彼らの心情は、読む者の心をえぐる。第24話に、自分が失恋したことを分かっていながらその想いを捨てられない山田を描いた、この作品でも屈指の名シーンがある。

 数日経ってベランダに出ると
 折れたシソが自分の重さに耐えかねて
 土の上でのたうっていた
 母さんの言う通りだった
 これは折れたところでちぎるしかなかった
 そこでちゃんと区切りをつけて
 新しく枝を伸ばすよりほかになかったのだ
 それでもまだ私は迷ってしまうのだ
 どうしようもなく

 失恋したとしても、その想いを抱いていいじゃないかという山田の切ない心と、それでは前に進めないのだという冷たい現実を描くために家庭菜園のシソを用いるという羽海野チカの発想には脱帽する。

 山田と真山とを隔てるのは、原田理花の存在だ。真山もまた、夫を交通事故で亡くして以来どこか生きることへの執着がなくなってしまったかのように見える理花を支えるうち、彼女を想うようになる。しかし、彼の恋もまた、上手くはいかない。彼らの恋を「片思い」にしているのは、「人間」の存在である。山田には原田理花がいて、真山には理花の夫がいる。それに対して、竹本の片思いにはどこまでも立ちはだかるのは「才能」だ。芸術に対するはぐみのような執着も明確な目的もなく美大に入学した竹本は、常にはぐみと森田に対してコンプレックスのようなものを抱いている。自分が何をしたいのかに悩み、はぐみや森田に憧れを抱き、だからこそ一線を引いて接しているのが、竹本という人物なのだ。竹本の「才能」に対する複雑な感情を表すモノローグがある。

 彼女は戦いに入っているのだ
 神さま やりたいことがあって泣くのと
 見つからなくて泣くのでは どっちが苦しいですか?
 神さま やりたいことってなんですか?
 それはどうすれば見つかるんですか
 それが見つかれば強くなれるんですか?

 寝食を、そして命を削りながら絵を描くはぐみに対して、「やりたいことがあって泣くのと見つからなくて泣くのではどっちが苦しいのだろう」と独り言つ。自分は彼女のようにはなれないのだという、諦念にも似た感情がそこにはある。花本はぐみと対比される「才能を持たないことに苦しむ者」が竹本祐太なら、森田忍と対比されるのは、兄の馨だろう。森田技研の社長であり、自身も優秀なエンジニアであった父の司から才能を受け継いだのは、弟の忍だった。技研の入社試験で「一番飛ぶ飛行機を作った者が入社させる」という課題が出されたとき、もっとも遠くに飛行機を飛ばしたのは忍だった。馨は自分が作った飛行機を片手に持ったまま、立ち尽くす。弟には自分の見えていないものが見えている。そのことに気づくのに、時間はかからなかった。父が見ていたのはいつも、才能豊かな忍の方だったのだから。森田技研が買収された後、馨は復讐のために生きていく。弟への複雑な感情を抱きながら。「才能を持たなかったこと」に苦しみながら。その一方で、忍もまた「才能を持ってしまったこと」に苦しむ。彼は、自分の才能に対して頓着がない。「父の会社を取り返すため」にやって来たことが、「才能」として積み重ねられてきたからかもしれない。自分が、彫刻や日本画の類まれなる才能を持っていることなど、彼にとっては些末なことなのだ。だからこそ、「森田さんには才能があるのに」という周囲からの評価にギャップを感じているのだろう。森田忍は、「才能」がなければ生きてはいけないのか?何かを生み出さなければ、生きている意味がないのか?物語の終盤、学園祭の事故ではぐみが右手の神経を損傷したことを聴きアメリカから帰国した彼は、はぐみを病院から連れ去り、自分の隠れ家で思いを打ち明ける。

 もう描くな 描かなくていい
 何かを残さなきゃ生きてるイミがないなんて
 そんなバカな話あるもんか
 生きててくれればいい
 一緒にいられればいい
 オレはもう それだけでいい

 この言葉はきっと忍からはぐみを通して、馨や竹本、そして誰よりも森田忍自身に向けられたものだ。たとえ「才能」に憑りつかれたとしても。「才能」に見放されたとしても。何かを残すことが出来なくても、生きていていい。そんなメッセージが込められて言葉に、はぐみは首を横に振る。はぐみは、忍を慕っていた。それでも。それでも、花本はぐみを救うことが出来るのは、愛ではないのだ。厳密に言えば、花本はぐみは、「恋愛」では自分を救うことが出来ないのだろう。絵を描くことでしか、自分を救うことが出来ない。それが花本はぐみであり、森田忍という「才能を持ってしまった者」なのだ。

 『ハチミツとクローバー』は、「才能を持ってしまったがゆえに苦しむ者」、「才能を持っていないことに苦しむ者」、そして「恋愛では自らを救うことが出来ない者」を驚くほど丁寧に描く作品なのかもしれない。「自らを救う」という表現は、「自らを幸せにする」と言い換えてもいいだろう。花本はぐみも森田忍も、「何かを生み出す」ことでしか「幸せ」になれない。はぐみは懸命にリハビリを続け、森田はアメリカに渡り映画製作に携わる道を選んだ。傷つきながらも、2人はそれぞれの道で何かを生み出していく。これほどの青春群像劇を、ここまで丹念に描く羽海野チカに敬意を表したい。

 

ハチミツとクローバー 1

ハチミツとクローバー 1

 

 

 

西尾維新対談集 本題 (講談社文庫)

西尾維新対談集 本題 (講談社文庫)

  • 作者:西尾 維新
  • 発売日: 2016/10/14
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 

 

 

 

*1:登場人物の通う美大

*2:本作の主人公

*3:はぐみの父のいとこ。浜田山美大の教師。

*4:陶芸科所属、真山のことをずっと思っている

*5:建築科所属、山田の気持ちには気づいているが…