感情の揺れ方

それでも笑っていたい

松本大洋『ピンポン』~見える者、そして見えざる者~

 「ヒーローとはなにか」、あるいは「才能とはなにか」。卓球に青春を捧げる人々を通して、松本大洋の『ピンポン』はそのテーマを丁寧に描いていく。

 そして『ピンポン』において、「ヒーロー」の資質を持つものと持たない者は「見える者」と「見えざる者」として描かれている。『ピンポン』には、卓球台を挟んだ向こう側に立つ相手のことを、そして同時にこちら側に立つ自分自身のことを見つめる力があるかどうかという、「ヴィジョン」のイメージが頻出する。

 それは例えば佐久間学*1という人間の在り方そのものであり、第46話から始まるペコ*2vsドラゴン*3の終盤における「鳥」のイメージであり、孔文革*4が装着するサングラスもそうである。特にこの孔文革には、「ヴィジョン」のイメージがつきまとう。

 中国からすごいやつが来るという噂を聞きつけたペコとスマイル*5は部活を抜け出し、孔の留学先である辻堂学院の体育館に潜入するものの、タイミング悪くそこには誰もいない。自分たちの学校よりも質の良い練習機材を見た二人が暇つぶしに始めた打ち合いの音だけを聞いて、孔は見抜く。カットマン、つまりスマイルがわざと負けていることを。彼には「見えている」。意気揚々と勝負を挑んでくるペコをスコンク*6で吹っ飛ばしたあと、「どうせ負けるから」と自分との対戦を固辞するスマイルを見てこぼした「どっちが負ける?」という言葉は決して冗談ではない。孔文革という卓球選手には、自分の限界もスマイルの才能も、そのすべてが「見えている」のだ。

「こんな事なら、もう少し早く自分の才能を見限るべきだった……

 見苦しい真似してるな俺は… 悲しくなってくる」

  ─孔文革 第3話『風の音がジャマをしている』

 スマイルの才能を見抜いているのは、孔文革だけではない。オババ*7、ドラゴン、そして小泉丈*8。小泉は、孔文革をして「闘争心」がないと言わしめたスマイルのプレースタイルを矯正するため、スマイルに対決を持ちかける。自分が勝てば絶対に服従すること、その代わりに負ければもうスマイルには干渉しないことを条件に。かつて「バタフライジョー」と呼ばれた小泉のプレーは序盤こそスマイルを圧倒するが、スタミナに勝るスマイルは徐々に小泉を捉え始める。最終的に小泉を下したスマイルは「僕、先に行くよ、ペコ」とだけ告げ、体育館を後にする。

 ここから、ペコとスマイルとの間には大きな溝が生まれる。スマイルは卓球を通して、ずっとペコだけを見つめている。自分にとってのヒーローであり、卓球を始めるきっかけになったペコが、もう一度「ヒーロー」として自分の前に立ってくれる日が来ることを願っている。しかし、スマイルには「見えてしまう」のだ。ペコの才能がさび付いていること、そして自分の実力がペコを超えてしまっていることが。小泉や風間の言うスマイルの闘争心のなさは、彼のヒーローが長い間その姿を消していることに原因がある。初めてのインターハイを迎え、中学時代からスマイルに注目していたドラゴンは、彼に直接こう告げる。

「私はね、月本君。君のプレーが嫌いだ。確かに技術は素晴らしい。

 評価もする。だが、相手選手の心情を考慮して打つ君の球は、

 実に醜い。驕りが過ぎる。

 君にはラケットを握る資格などない。私は嫌悪する。」

  ─風間竜一 第14話『少年怒る』

 このセリフは、スマイルという人物の特徴を的確に言い表している。スマイルは、卓球台を挟んで常に相手を見つめている。「見えてしまう」のだ。相手のプレースタイルや弱点、そして心の持ちようまで、あらゆることが。だからこそ、卓球にすべてを懸けるドラゴンやチャイナを前に、スマイルは委縮してしまう。卓球台を挟み、「自分」を見つめるのか「相手」を見つめるのかという違いはそのままペコとスマイルとの違いになるのだが、その点については後述したい。

 孔文革との対戦を前に、スマイルはペコに言う。

「ペコはヒーロー信じる?

 ピンチの時には必ず現れるんだ。

 僕がどれだけ深くに閉じ込められても助けに来てくれる。

 僕は信じてた…。もうずっと長い事彼が来るのを待ってた」

  ─スマイル 第16話『ヒーロー不在』

 しかしペコは「マンガの世界」だと取り合わない。ヒーローの口から告げられる「ヒーロー不在」の事実に、スマイルは何を思うのか。勝利を目前にしつつも孔文革とそのコーチの気迫に怯え、スマイルはわざと負けてしまう。一方でペコは、今まで歯牙にもかけない相手だったはずのアクマにふっ飛ばされる。先述したように、『ピンポン』における「ヴィジョン」というテーマを扱うにあたって、アクマこと佐久間学を抜きに語ることは出来ない。アクマはペコと対戦する際中、モノローグでこう語る。

「いつだってお前が一番だった。やる事なす事垢抜けしていて……

 いつもみんなの中心だった。お前はヒーローだった……。

 俺が半年かかって覚える技術も、お前は一週間でモノにする。

 お前が右を向けば皆右を向く。お前が笑えば皆が笑った。

 おちゃらけても馬鹿をやっても、決める所は確実に決める。

 年上の相手だって簡単に吹っ飛ばす。

 そんなお前を、俺がどうゆう気持ちで見ていたか……

 俺が何を感じていたのか……。俺が…。」

  ─アクマ 第21話『海王』

 アクマにとっても、ペコは「ヒーロー」だったのだ。憧れの存在だったのだ。ペコ、スマイルとは違う卓球の名門校に進み、努力を積み重ねてヒーローに勝った佐久間学が次に見たものは何なのか。それは、「誰も自分のことを見ていない」という現実である。憧れの風間竜一が気にかけているのは自分ではなく、そしてペコでもなく、スマイルだった。月本誠という、タムラの道場で自分が見下していた存在だった。アクマに敗れたという事実から目を背け、タバコを吸いゲームセンターに入り浸るペコとは対照的に、アクマは現実を直視する。不器用を絵に描いたような彼が次に取った行動は、部で禁止されている私的な対外試合でスマイルと対戦するというものだった。しかし、チャイナを追い詰めたスマイルはさらに実力を伸ばし、もはやアクマが敵うような相手ではなくなっていた。

「どうしてお前なんだよっ⁉ 一体どうしてっ⁉

 俺は努力したよっ!!

 お前の10倍、いや100倍1000倍したよっ!

 風間さんに認められるために!! ペコに勝つために!!

 それこそ、朝から晩まで卓球のことだけを考えて…

 卓球にすべてを捧げてきたよ、なのにっ」

「それはアクマに卓球の才能がないからだよ。

 単純にそれだけの話だよ。大声で騒ぐほどの事じゃない」

  ─アクマ、スマイル 第26話『おいてけぼりブルース』

 ひどい乱視を抱えながら、他人の何倍も努力を重ね自分のヒーローに打ち勝ったアクマ。しかし目の前に立ちふさがったのは、スマイルだった。何処で間違えたのか、何に躓いたのか。片瀬高校を去り、夜の繁華街で肩のぶつかったチンピラと傷害事件を起こす彼の姿は、あまりにも切ない。

「何処見て歩きゃ、褒めてくれんだよっ、えー?オイッ。」

  ─アクマ 第26話『おいてけぼりブルース』

 自分を吹っ飛ばしたアクマがスマイルにふっ飛ばされる。その事実に直面したペコは相棒だったラケットを焼却炉に投げ入れ、だらけた生活を送っていた。しかしタムラの道場を手伝っている際中、小学生時代のスマイルがトロフィーを手に笑っている写真を発見する。ゲームセンターの筐体を破壊し、「奇跡なんて言葉、知らなかった」と自分の現状に目を向け始め、昔からの癖で川にダイブしたペコを道場で待っていたのは、不格好なカットの練習をするアクマだった。後悔したくなかったと語るアクマは、半ば独り言のように、つぶやく。

「飛べねぇ鳥もいる」

  ─アクマ 第28話『星に願いを』 

   

 アクマのこの言葉によって、「ヴィジョン」のイメージは「飛ぶ」イメージへと鮮やかに変化していく。「見える者」はすなわち「飛べる者」であり、「見えざる者」はすなわち「飛べない者」へとその姿を変えていく。そしてアクマは、ヒーローであるペコの背中を押す。アクマがペコを説得する第29話は、この作品でも屈指の名場面が続く。

「スマイルにふっ飛ばされた後にな…… 色々考えたよ、俺様。

 チンピラどついて退学食らって、退部して…

 無益なカット身に付けに、そこらじゅうの道場回ってな……

 いろいろな、へへ…。

 奴の言う俺の無能を納得するのに時間は必要なかったし……

 それ受け入れちまえば安心できた。見通しも利いたよ。」

  ─アクマ 第29話『もがけ青春』

「なんでいつも逃げる事しか考えねえんだよっ!!

 どうしてそれだけの才能を殺す?

 お前目指してプレーした、俺の身にもなれよっ。

 戦型もラケットもフォームも全部、お前を真似たよっ。

 俺だけじゃなく… 当時同じクラスで打った奴、皆…

 お前に憧れてたよっ! 俺らにとってお前は……」

  ─アクマ 第29話『もがけ青春』

「浅瀬で溺れる馬鹿一人、俺が救った顛末だ。

 お前は沖にすら出ちゃいねぇ」

「そう…そうか。沖にすら……」

「続けろ卓球。血ヘド吐くまで走り込め。血便出すまで素振りしろ。

 今よかちったァ楽になんよ…ヒーロー」

  ─アクマ、ペコ 第29話『もがけ青春』

こうして再び卓球と、そしてスマイルと向き合う覚悟をしたペコは、オババに頼み一から練習を始める。季節は進み、夏のインターハイ予選に出場したペコの初戦の相手は孔文革だった。「見える者」である孔は、すぐに気づく。目の前にいるのが、一年前に自分がスコンクで吹っ飛ばした相手だということに。しかしペコはもはや別人だった。大方の予想に反して、孔文革は1ゲームも取れずに敗退してしまう。

「シェーシェーだぜ、孔さん。

 あんたのおかげで、オイラひとつ強くなる事が出来たよ。

 あんたはオイラに飛び方を教えてくれた」

  ─ペコ 第40話『再見』

 挫折の痛み、敗北の味、努力の重み。すべてを知ったヒーローが帰って来る。鮮やかに飛翔するヒーローは膝に不安を抱えながらも準決勝へ進出し、全国大会への出場権を手にする。「ヒーローとはなにか」、「才能とはなにか」。それはすなわち「見えるか否か」「飛ぶことが出来るか否か」でだが、「ヒーロー」たるペコには見えていなかったことがある。孔文革と初めて対戦した際の彼我の実力差、そしてなにより「スマイルの才能」がそうだ。この点においてペコは「見えざる者」のように思われるが、しかしそれは「見ようとしない者」だったという方が適切ではないだろうか。なぜならペコもまた、スマイルの才能を初めから見抜いていた者の一人だからだ。膝が本調子でないにもかかわらず風間竜一との準決勝へ挑もうとするペコはオババに止められるが、こう答える。

「スマイルが呼んでんよ。

 アイツはもう、ずっと長い事俺を待ってる……

 ずっと長いこと、オレを信じてる……

 気づいてたけど、ずっと知らんフリしてたよオイラ。

 びびって必死に耳塞いでたさ。俺は……」

  ─ペコ 第45話『学園熱血スポーツ根性物語』

 ペコは、スマイルの前に立たなければならない。それもヒーローとして、卓球台を挟んで、向き合わなければならない。ペコはスマイルに、自分こそがヒーローなのだと言ったのだから。

「もうずっと長いこと、彼が来るのを待ってます。

 そして今日、彼が帰って来ます」

  ─スマイル 第45話『学園熱血スポーツ根性物語』

 スマイルの前に立つために、そして何より自分が飛ぶために、ペコはドラゴンとの戦いに挑む。ペコは卓球を通して自分と向き合い、スマイルはペコと向き合う。そして卓球の権化こと風間竜一もまた、何よりも周囲の人々のために卓球をする人間のひとりだ。常勝の憂い、称賛の苦痛…。ドラゴンにとって勝利とは宿命であり、卓球は苦痛でしかない。そしてそれこそが彼の強さであり、彼がペコを叩きつぶそうとする理由でもある。ファーストゲームにおいてペコは全力のドラゴンに歯が立たず、圧倒される。続くセカンドゲーム冒頭、ペコは問いかける。誰に?自分自身に。飛べる?と。彼は答える。オイラ、飛べるっ。ペコは飛ぶ。ドラゴンを相手に、自らの卓球をする。その羽は、ついにドラゴンをも捉える。セカンドゲームラストプレーを描くことにすべてのページが割かれた第49話「Play」の美しさは筆舌に尽くしがたい。ペコはまさしく「飛んだ」のだ。そしてドラゴンもまた、型にはまらないペコのプレーに引っ張られるようにして、試合にのめり込んでいく。劣勢の中、ドラゴンは笑うのだ。

「全身の細胞が狂喜している。加速せよ、と命じている。

 加速せよっ…加速せよっ…!! 

 目には映らない物、耳では聞こえない音、

 集中力が外界を遮断する。

 膨張する速度は静止に近い。奴は当然のように急速な成長を遂げる。

 反射する頭脳、瞬発する肉体…… 次第に引き離されてゆく……

 徐々に置いて行かれる感覚。優劣は明確。しかし、焦りはない。

 全力で打球している。全力で反応している。

 怯える暇などない。怯える必要などっ……」

  ─ドラゴン 第51話『High』

 怯える暇も、怯える必要もない。ヒーローとの対戦に、彼は狂喜する。プレッシャーに押しつぶされそうになり、試合前にトイレに籠る風間竜一はいない。勝敗を決めるプレーを前に、彼もまた自分の上空を羽ばたく鳥を見る。飛んでいく者、それを見つめる者…。

 かくして、ついにヒーローはスマイルの前に立つ。かつてロボと言われたスマイルは、闘争心を携えてゲームに挑む。右膝にサポーターを着けたペコのフォアに深く打ち、バックに切り返す。かつてバタフライジョーが出来なかったことを、スマイルはやってのける。これまでの思い出を語り合うかのように、二人はラリーを続けていく。もはや勝敗に意味などない。全力のペコとスマイルが卓球台を挟んで向かい合うという、それだけで良いのだ。

 最終話、時は5年後。スマイルは選手を辞め、ドラゴンは日本代表から外れていた。5年前、彼らの背中にあった羽は果たしてなくなってしまったのかもしれない。ヒーローの力を借りて「飛んだ」スマイルとドラゴンはいつの間にかその羽を失っているのだ。しかしヒーローは飛び続けていた。その羽は海を越えていた。星野裕だけが、まさしくヒーローだったのだ。

 

 

ピンポン(1) (ビッグコミックス)

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*1:通称アクマ。ペコ、スマイルの幼馴染み。

*2:星野裕の愛称。

*3:海王学園卓球部主将、風間竜一の愛称。

*4:日本に留学してきた上海の元エリート選手。通称チャイナ。

*5:月本誠の愛称

*6:完封

*7:タムラ卓球場を経営し、ペコ、スマイル、アクマを小学生のころから指導してきた。

*8:通称ジョー。ペコたちの所属する片瀬高校卓球部の顧問。