感情の揺れ方

それでも笑っていたい

──「境界の超越」あるいは「神話の解体」──映画評:『天気の子』

 2016年、『君の名は。』の大ヒットによって一躍日本アニメーションの中心を担う存在になった新海誠監督の最新作が『天気の子』だ。

 この作品における重要なモチーフのひとつに、「境界の超越」がある。物語の冒頭、主人公の森嶋帆高は生まれ育った故郷の島からフェリーに乗り、それまで自分と世界とを隔てていた海を越え東京へ向かう。道中、どこかうさんくさい須賀圭介に助けられながら到着した東京では異常気象が続き、真夏なのに雨が降り続いている。フィクションの極北とも言える新海作品の映像が描く東京の街はどこまでも美しく、それは降りしきる雨も例外ではない。印象的なのは、特に物語の前半において、「窓ガラスや傘越しの雨が頻繁に描かれること」である。雨は、窓や傘と言った「境界」の向こうにある存在として表現されている。天候・気象はいわば「世界と私」、「人知を超えたものと人間」という図式に収められていると言っていい。しかし、その描写は物語が進むにつれて薄れていく。帆高が新宿で出会った少女、天野陽菜が「晴れ女」の力を活用すればするほど。帆高が東京へ来るおよそ一年前、天野陽菜は導かれるようにして代々木の廃ビル屋上にある小さな鳥居をくぐる。それ以来彼女は、「晴れ女」になった。局地的ではあるものの、彼女が祈れば空は晴れるようになったのだ。慣れない都会で飢えていたところを陽菜に助けられた帆高は、街で偶然見かけた彼女を助け、奇しくもその廃ビルに足を踏み入れる。そこで「晴れ女」の力を知った帆高は、弟の凪と二人暮らしの陽菜をすこしでも助けるため、「晴れ」を売ることにした。何ヶ月も雨が続く東京の街で、人々の「晴れ」に対する願いは強く、「晴れ女」への依頼は殺到する。そうして依頼をこなしていく中で、陽菜の体にある変化が起こる。彼女の体は徐々に透明になってしまうのである。都市伝説を取材する須賀圭介やその姪である夏美によると、「晴れ女」、つまり「天気の巫女」は古代から存在し、その力を使い果たすと消えてしまう。それが「晴れ女」の運命だと、陽菜は帆高に告げる。この時点で、「境界越し」の存在としての雨の描写は格段に減っている。それは、陽菜が言うように『私の体と空は繋がっている』からだ。陽菜という存在と空、つまり「彼岸」との境界が薄れつつあることが比喩的に描かれている。この物語において、陽菜はある意味で最初から「境界を超越」した存在である。それは、彼女だけがあの鳥居をくぐり、「彼岸」へ足を踏み入れた存在だからだ。そして「彼岸」に存在するのは、「神」あるいは「人知を超えた何か」である。物語の中盤以降、「境界の超越」は新たな段階へと移行する。それは「神話の解体」、そして「父殺し」を超えた「神殺し」の段階だ。

 『天気の子』は、「神話を解体する」物語である。「境界の超越」はただ物理的に陽菜という存在の輪郭だけでなく、劇中でも言及される「彼岸」と「此岸」、つまり「人間と神」という境界へと移り変わっていく。まず第一に、この世界の問題は誰にとっても関係のある「異常気象」あるいは「豪雨」である。「自然と人間」という、抽象的な図式の問題だ。しかし、帆高にとってそんなことは関係がない。陽菜の存在と天気が繋がっている以上、雨がやんでしまえば陽菜は消滅してしまうのだ。彼にとって世界など問題ではない。最大多数の人間にとっての幸福である「晴れ」は、帆高にとっての幸福ではないのである。陽菜が消えたからもたらされた太陽の光を喜んで享受している人たちのことを、彼は受け入れられない。だからこそ、帆高は陽菜を「彼岸」から「此岸」に連れ戻す、再び「境界を超越する」決心をするのである。こうして問題は「彼岸と此岸」、「神と人間」という次元へと移っていく。帆高はまず、陽菜のいない世界を包む秩序、すなわち社会や大人たちにNOを突きつける。自分の行方を捜す家族や警察から逃げ、ついには警察署からも逃亡する。もちろん行先は代々木の廃ビルだ。須賀の説得を無視し、反抗した末の発砲は東京に来てからは感じていなかった心のざわつきが爆発した瞬間なのだろう。豪雨の影響でボロボロになった外階段を駆け上がり、帆高はついに小さな鳥居をくぐる。「天気の巫女」というシステムと、そのシステムを作ったのであろう存在を否定するために。「此岸」から「彼岸」へと「境界を超越」した帆高は、空の向こうにある不思議な世界から陽菜をこちらへと連れ戻す。「天気の巫女は消え、世界は秩序を取り戻す」という「神話」は解体されたのだ。森嶋帆高の手によって。世界の秩序は狂ったまま、東京にはそれから3年もの間雨が降り続き、その雨は未だに止んでいない。しかしそんなことは問題ではない。帆高にとって世界とは取るに足らない存在なのだから。だからこそ彼は「神話」を解体し、いわば「神を殺した」のである。世界と陽菜とを天秤にかけ、帆高は陽菜を選んだ。「天気の巫女一人が消えて世界が良くなるならそれでいいって、みんなそう思ってるよ(大意)」という、圭介のセリフとは裏腹に。故郷での保護観察を終え、街の大部分が水没してしまった東京で帆高は陽菜と抱きしめあう。「晴れ女」の力を失いながら、しかし祈りをやめることはない陽菜と。森嶋帆高と天野陽菜は、社会や秩序を超越するだけでなく、世界そのものあるいは神すらも超越したのである。

 個人的な感想にはなるが、私には腑に落ちない部分もある。それは上で述べたような「神」というか「人知を超えた存在」の描き方だ。なんというか、現象の原因、つまり異常気象や「天気の巫女」、空の向こうの世界を生み出す存在として「神」を肯定する、言い換えればある種のご都合としての「神」を認めつつも、物語の最後にはそれを否定しているのが『天気の子』の根幹となる部分だと思う。その部分が、ざっくり言えば好みではなかった。あと、細かい部分にはなるが空から降って来た透明な魚、高校生たちが見つけた空中に浮かぶ大量の水、陽菜のチョーカーなど、気になる部分も多い。ただこれに関しては私の観察力不足も多分にあると思うので、せめてもう1回は劇場で鑑賞したい。

 そして、そういう好みではない部分を差し引いてもRADWIMPSによる音楽と映像美にはアニメーションの力を感じて心が震えたし、印象的な場面も数多くあった。何より最終版に描かれる「水浸しの東京」には、日本のエンターテインメントがようやく「3.11」を乗り越えたということが実感出来た。おそらく、3年前ですらあの描写は出来なかったと思う。あと、作中で描かれる街があまりに美しく、劇場を出たあとに「いや現実の街めちゃくちゃ汚いな」と思ってすこし笑ってしまった。ぜひとも映画館で見てもらいたい作品である。