感情の揺れ方

それでも笑っていたい

映画評:『シェイプ・オブ・ウォーター』

 連日の更新になります、こんにちは。結果的に余暇が増えている状況なので、さまざま映画やら演劇やらを見て更新頻度をあげていきたいなと思っています。

 今回はギレルモ・デル・トロ監督の『シェイプ・オブ・ウォーター』についての感想を書いていきます。前々からこの日に観ようと思っていたらその前日にアカデミー賞を獲得したようで、その影響か田舎の映画館がわりと混んでいました。

 舞台は1962年のアメリカ、ボルチモア。政府の研究所で働くイライザはある日運び込まれた生物に不思議と心を惹かれるようになる。彼女は過去の出来事が原因で手話を使用していたが、その生物とのコミュニケーションに声は必要なかった。イライザと彼との交流が進んでいたある日、彼の生体解剖が決定され──

 インターネットなどではギレルモ監督による新たなファンタジーという評判が多かったように思いましたが、個人的にはファンタジーというよりももっとオーセンティックな、なんというかエログロを含んだ昔ながらのおとぎ話、寓話というような印象を受けました。というのも、アマゾンから研究所にやってきたあの生物に対する特定の名辞はついぞ与えられないまま映画は終わりを迎えるからです。「やつ」であり「もの」であり「彼」である「あの生物」は決して対象にならず、人間の支配下ないし想定の内側に入ってこない。鎖につながれながらもストリックランドの指を飛ばし、イライザの部屋のバスタブで衰弱しながらも回復しジャイルズの飼い猫からたんぱく質を摂取する。常に出来事の中心にいるのは「彼」なのです。その影響を受けてイライザの日常、ルーティンは大きく変化する。毎日決まった時間に起きて卵をゆで、お風呂に入り、同じバスで夜勤に行き、タイムカードを切る。これらのルーティンが変化したことを通してイライザ自身が変化していることをギレルモ監督は巧みに描いています。「彼」のために茹でる卵の数が増え、バスでは帽子を枕代わりにして眠ることもなくなる。なにより「彼」のために国家を敵に回すのです。”彼は本当の私を見てくれる”。イライザは、いわば向こう側の存在である「彼」に見られることで、自身も向こう側へと近づいていくことになります。この作品では、向こう側の存在がこちら側の存在になることは決してありません。パトリオットパトリオットのまま、売れない絵描きは売れない絵描きのまま、孤独は孤独のまま。たとえばいつかのファンタジー作品のように、人間でないものが人間になるのではなく、人間、つまりイライザが向こう側の存在になり作品は終わります。教訓めいたおとぎ話のように、こちら側にいる人間にはどうしようもできない存在がやってきて、去っていく。昔話の最後には人間の無力さが残るように、こちら側にとどまった人たちには「彼」と「彼女」がどうなるのかは分からないのです。

 イライザを向こう側へと連れ去ったのは、「彼」と、「彼への愛」です。劇中で愛が表現されるとき、いつもそこには「水」が描かれています。研究室のプール、バスタブにたまったお湯、卵を揺らす熱湯、窓の雨粒。「DO NOT WASTE WATER」というポスターと、その前でイライザが流す涙。「水」とは「イライザの愛」であり、この作品を貫くテーマだと感じました。彼女の愛の姿が描かれるストーリーをここまで美しくしているのは、緑を基調にした美術とリスペクトに満ちた音楽をはじめとしたギレルモ監督の手腕、そしてサリー・ホーキンスを筆頭にした演者の繊細な表現に他なりません。

 素晴らしい作品です。