感情の揺れ方

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劇評:『ブラッケン・ムーア~荒地の亡霊~』

 亡霊とは何か…。あるいは、亡霊とは誰か?荒野をさまよう亡霊の正体は、亡霊を見る人間の正体は。アレクシス・ケイ・キャンベル作、上村聡史演出のこの作品は、1937年12月のイギリス、ヨークシャー州を舞台に、第二次大戦前夜の仄暗いイギリスと現代日本との特異な類似点を浮かび上がらせる。1929年のアメリカに端を発した世界恐慌の影響を受けた経済不況は言うまでもなく、加速度的に進化する機械文明との向き合い方を自問する人々。自らの置かれた環境そのものがどう考えても良くはなっていないとき、省みるのは外的な世界ではなく内的な、つまり自分自身の性質や、それまでの人生だろう。

 物語が進行していくヨークシャーのプリチャード家は代々炭鉱の経営を生業としている。冒頭ではいくつかあるのだろう炭鉱のうちのひとつを閉鎖するかどうか、そして世界情勢について、現当主ハロルド・プリチャードとジョン・ベイリーが話し合う。ベイリーの懇願もむなしく、ハロルドは炭鉱の閉鎖と機械の導入、それに伴う人員削減の方向は変わらないことを告げる。ただ炭鉱夫が仕事にあぶれるだけでなく、その家族までもが路頭に迷うことになるのだというベイリーの説得に対し、ハロルドは「世界には犠牲が必要だ」と取り付く島もない。そこに、来訪者が現れる。プリチャード家とかつて親交があった、エイブリー家の面々だ。彼らは家族ぐるみでの付き合いがあったが、この10年はすっかり疎遠になっていた。10年前、当時12歳だったハロルドの一人息子、エドガーがブラッケン・ムーアという荒野の廃坑に落ちて亡くなった事件をきっかけに。その事件以来ハロルドの妻エリザベスはふさぎ込んでしまい、家の外に出ることもなくなってしまった。そんな彼女を励ますため、ジェフリー・エイブリー、妻のヴァネッサ、その息子でエドガーとは無二の親友であったテレンスたちはロンドンからヨークシャーを訪れ、数日間プリチャード家に滞在する予定であった。10年ぶりの再会はどこかぎこちなく、精神の疲弊したエリザベスを刺激しないよう交わされる会話は綱渡りのようで緊張感に満ちている。ハロルドはエリザベスを気遣いながらも、仕事に対するそれと同じような姿勢と態度でみなと接していく。妻とは違い、自分はもう息子の死を乗り越えているのだとみなに、何よりも自らに示すように。夫妻は、未だエドガーの亡霊に憑りつかれているのだ。そこにいないはずなのに、そこにいる。まさしく亡霊が、プリチャードの屋敷を徘徊している。この時点で、プリチャード夫妻に間にある溝はどこまでも深い。科学では説明できない、人間と人間、あるいは生きる者と死んだ者との繋がりを信じるエリザベスと、科学や理論だけを信じようとするハロルド。テレンスはそれを見て、ある決断をする。この二人の間の橋渡しを、エリザベスとハロルドの心を繋げようとする。いや、正直に言えば、テレンスがなぜそう決意をしたのか、もっと言えば、なぜテレンスが10年の時を経て再びプリチャード家を、親友の死んだ悲しき土地を訪れる気になったのかは分からない。彼の言う通り、湖に浮かぶ島にひとり暮らす破戒僧から芸術家の役割を聞かされたからなのか、ハロルドとベイリーのやり取りを盗み聞きし、そのハロルドの態度が目に余ったからなのか、客室として自分が通されたかつてのエドガーの部屋であの手帳を見つけたからなのか、そのどれも定かではないのだ。おそらく最初の二つのうちのどちらか、あるいはそのすべてなのだろうとは思う。少なくともプリチャードの屋敷を訪れる前になんらかの決心はしていたのだろう。そうでなければ、女中のアイリーン・ハナウェイがテレンスの客室に入れなかったことの説明がつかないのだ。もちろんこの推測も、正しくはないような気がするが…。エイブリー一家がプリチャード家を訪れたその夜から、テレンスは毎夜悪夢にうなされるようになる。何かが自分の中に入ってくるような、自分を自分たらしめている壁がなくなって、自分が別の誰かになるような感覚で目が覚めるのだと言う。そして3日目の深夜、テレンスの叫び声が屋敷中に響き渡った。みなが心配して駆けつけると、テレンスはエドガーの亡霊が自分に憑依して、何かを伝えようとするのだと語り、意識を失ってしまう。やがて目を覚ましたテレンスは、なにかうわ言のようなことを話し出す。「ベツィ、たまご焼いて」。そう繰り返す。その言葉を聞いたエリザベスは驚愕してしまう。テレンスの繰り返すその言葉は、かつてエドガーがエリザベスと二人の時にだけ口にしていた言葉だったからだ。テレンスがそんなことを知っているはずがない、エドガーの亡霊が乗り移ったのだという妻の主張を、ハロルドは一蹴する。男とは親友にはすべてを打ち明けるものだ、テレンスはそのことを知っていたのだと。正気を取り戻したテレンスに向かって、ハロルドはまるでフロイト博士のようにまくしたてる。君はそのことを知っていたが忘れていて、無意識のなかに眠っていたその記憶がこの屋敷に来たことで刺激された、だから知らないはずのことを知っているかのように語っているだけなのだ。ハロルドの頑なな態度は、崩れない。目の前のことをどうにか理解しようと科学にすがるその姿は、しかし逆説的に宗教者のように私の目に映った。しかし、彼をあざわらうかのように、亡霊は再び現れる。テレンスの体を借りて、ブラッケン・ムーアに行こうとみなに語り掛ける。そこで伝えたいことがあるのだと。

 そこで第一幕は終了する。第二幕は、ブラッケン・ムーアに行った彼らが屋敷に帰ってくるところから始まる。正確に言えば、朝になってもう一度訴えにやって来たベイリーに、アイリーンが今日のところは帰った方が良いと促すところから始まる。ハロルドたちに抱えられたテレンスは気を失っていて、一部始終を見たのであろうヴァネッサは「あんな恐ろしいこと…」と怯え切っていた。今日中に帰りましょうとジェフリーに繰り返すが、ひどい雨と雷、そしてもう電車には間に合わないことが分かるとヴァネッサはテレンスをつれて部屋にこもろうとする。しかし亡き息子とのつながりを捨てたくないエリザベスはそれを止める。押し問答の末、すこしの間だけだと、ジェフリーとヴァネッサは部屋に戻り、応接室にはテレンスとエリザベスだけが残された。目覚めたテレンスはやはりエドガーであり、戻って来たハロルドとエリザベスに語り掛ける。もう、二人には前に進んで欲しいのだと。世界を取り戻して欲しいのだと。それこそが伝えたかったことだと言い残し、亡霊は消える。翌朝、それまで降り続いていた雨はやみ、久々の晴天が辺りを包む。テレンスはすっかり正気を取り戻していた。そして、エリザベスがエイブリー一家と共にロンドンへ出かけるというのだ。10年間外出していなかった妻の変化にハロルドは驚くが、エリザベスはエイブリー夫妻とともに散歩へ行ってしまう。そこにテレンスが起きてきて、彼はハロルドに話し出す。破戒僧に貰ったコインをラッキーアイテムとして持ち歩いていること、炭鉱の閉鎖を盗み聞きしたこと、そして、整理されたエドガーの部屋であるものを見つけたことを。ここからは、物語の核心となる場面だ。だから、詳細に書くことは避けたい。物語の核心というより、ここからの一場面こそが、この物語だと言って良いと私は思う。テレンスの話を聞いて激高したハロルドは彼に掴みかかるが、テレンスも語りを止めようとしない。しかし、そこにジェフリー夫妻とエリザベスが帰ってくる。ジェフリー一家が先に屋敷を出て、残されたエリザベスは夫に語り出す。この屋敷を、壁を、装飾を見るたびに、これは私のものではなく夫のものだと思っていたこと。そして同時に、私もまた夫の一部なのだと思っていたこと。あなたは私を、エドガーを、一人の人間だと思ったことがある?世界を支配しているのは自分だということを疑ったことがある?その問いかけに、ハロルドは反論するが、もはや彼の言葉に意味はなかった。もう帰ってくることはないだろうとエリザベスは言い残し、出発してしまう。一人になったハロルドだが、そこにベイリーがやってきて、炭鉱の閉鎖と機械の導入を進める意思に変わりはないかと問うが、ハロルドは同意書にサインをし、ベイリーも屋敷を後にする。そして女中のアイリーンまでもが、母の様子を見に行くといって屋敷を後にする。彼女の「おひとりでも、大丈夫ですか」というセリフはきっと、「これから先、おひとりでも大丈夫ですか」ということなのだろう。ハロルドは家族も、労働者も、自分が信じていたすべてをなくしてしまう。残ったのは前時代的な、どこか気が滅入るような屋敷だけ。家父長制の喪失がそこにはある。そして、このエントリーの冒頭で述べた、亡霊とは誰か、亡霊とは何かという問いに対する答えが、そこにはある。亡霊とはエドガーではない。エリザベスにとっての亡霊とは、ハロルドや屋敷を含めたプリチャード家であり、ハロルドにとっての亡霊もまたプリチャード家、言うなれば、あらゆるものを支配しようとする男性的な考え方そのものなのである。ハロルドは、あらゆるものはそのような「男性性」とは全く別の次元、方法で繋がっているのだということを理解出来なかった、しようとしなかったのである。ハロルドはおそらく正気を失うだろうという、そのような示唆がなされたところでこの舞台は幕を下ろす。

 ここからは俳優陣に話を移したい。まずはやはり、テレンスを演じた主演の岡田将生。『HAMLET』を観劇したときも同じことを書いたとは思うが、やはりというかなんというか、めちゃくちゃ美しい。こんなにも美しいかいというくらい。そしてもちろん、テレンスと、エドガーに憑依されたテレンスというかなりハイレベルな演じ分けをこなす実力。すばらしいパフォーマンスだった。もっともっと舞台作品に出て欲しいと思ってしまうのは、舞台好きの悲しい性だ。そして個人的に印象に残っているのは、女中のアイリーン・ハナウェイを演じた前田亜季。シンプルにめちゃくちゃ上手かったように思う。そう長くはないひとつひとつの出演場面と、プリチャード家に仕えながらも保身に走ってしまうような、とても人間らしい役柄を的確に、十全に演じ切っているように感じた。先述した、クライマックスの「おひとりでも、大丈夫ですか」はこの物語を完結させるためのとても重要なセリフだと私は思っているのだが、そのセリフの完璧さ。岡田将生の次に印象的な出演者だった。

 

 岡田将生が出演していた『HAMLET』の劇評も、良ければ読んでいただきたい。

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