感情の揺れ方

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仙名彩世 ──戦慄すべき娘役──

 仙名彩世という娘役がいる。正確には、まだいる。彼女は2008年に宝塚歌劇団に入団し花組に配属され、2017年に明日海りおの相手役として花組トップ娘役に就任した。そんな彼女が、2019年4月28日、宝塚歌劇団花組公演『CASANOVA』東京宝塚劇場公演千秋楽を持って退団する。退団してしまう。仙名彩世が娘役でなくなる日が、すぐそこまで来ている。

 

 彼女の娘役としての経歴は、決して順風満帆ではなかったように思う。宝塚の娘役というものは難しい。語弊のある言い方になるが、美貌や実力だけが求められるわけではないし、タイミングというものも大きい。実力と美貌を兼ね備えていながら、タイミングに恵まれずそのまま退団してしまう娘役は数えきれない。言うなれば、娘役は賞味期限が短いのだ。「男役10年」という言葉があるように、男役は10年務めてようやくスタートラインに立ったと言われ、トップスターに就任するのはだいたい在団15年前後の組子(宝塚は団員をこう呼ぶ)が多い。その一方で、娘役がトップに就任するのは入団から7年以内になることが多く、入団から3年目でトップになる娘役も少なくない。もちろん例外もあるが、ここで参考までに現在(2019年4月上旬)の各組トップ娘役の入団年と就任年をまとめてみる。

 ・月組トップ娘役:美園さくら 2013年初舞台、2018年トップ就任

 ・雪組トップ娘役:真彩希帆  2012年初舞台、2017年トップ就任

 ・星組トップ娘役:綺咲愛里  2010年初舞台、2016年トップ就任

 ・宙組トップ娘役:星風まどか 2014年初舞台、2017年トップ就任

 このように、彼女たちは入団直後から勢いをつけてトップになっていると言っていい。新人公演(入団7年目以内の組子たちのみで行われる公演)では早くからヒロインを演じ、バウホール(宝塚大劇場に併設されている、主に若手を中心とした公演を行う劇場)や別箱(梅田芸術劇場などの外部劇場)の公演でもヒロインの役割を担ってきた。では、仙名彩世はどうだろうか。

 ・花組トップ娘役:仙名彩世  2008年初舞台、2017年トップ就任

 入団から9年目、トップ娘役として初舞台を踏んだ時点では入団10年目での就任というのは、遅咲きと言っていい。そして彼女には、新人公演でのヒロイン経験がないのだ。新人公演でのヒロイン経験がない娘役がトップに就任するのは、彼女で実に32年ぶりとなる。なぜ彼女が新公でヒロインになれなかったのか、私にはなんとも言えない。彼女のひとつ上には桜咲彩花が、ひとつ下には実咲凜音がいた、ということが大きかったのかもしれない。要するにタイミングの問題だ。そして、仙名彩世という娘役に実力がありすぎたという面もあったのかもしれない。その証拠に、2011年の『ファントム』新人公演では、4年目ながらカルロッタというこの名作ミュージカルの中で最も実力が求められる(と私が勝手に思っている)役を演じ、2013年の『オーシャンズ11』新人公演ではクィーン・ダイアナ、2014年の『エリザベート』新人公演では皇太后ゾフィーと、いずれも本公演では屈指の娘役である桜一花が演じた、物語の屋台骨と言える役を歴任してきた。その間にバウホールでは『フォーエバー・ガーシュイン』で初ヒロインを演じたが、正直この時点でもう仙名彩世がトップ娘役になることはないだろうとファンは思っていた。それは2014年に宙組から花乃まりあが組替えし、蘭乃はなの後任としてトップ娘役に就任したからである。仙名彩世がトップ娘役に就任するタイミングはここしかなかった。バウ初ヒロインを演じ、実咲凛音が宙組へ移動したと言っても、桜咲彩花は円熟味を増し、朝月希和と真彩希帆が頭角を現しつつあった。そしてそのような状況の中で花乃まりあがトップに就任して、可能性は潰えてしまったと当時の私は思っていた。宝塚のファンなら、口にはせずともそう感じていたのではないだろうか。2010年入団の花乃まりあが2014年にトップ娘役に就任し、数年後その後任に仙名彩世が選ばれるなんてことがあるかな、と。適当なタイミングでこのまま退団してしまうかな、と邪推してしまうのが、ファンの性だ。

 しかし、彼女は決して姿勢を変えなかった。弛まなかった。腐らなかった。実直に、切実に、おそらく気の遠くなるような努力を積み重ねた。それは、彼女のパフォーマンスを見ていれば明らかだった。仙名彩世がいなければ成立しない作品が、確かにあった。2015年の『風の次郎吉』ではヒロインの手妻の幸を、2016年の『 For the people』でもヒロインのメアリー・トッドを好演している。両作品はそれぞれ専科の北翔海莉と轟悠を主演に据えた作品であり、仙名彩世はその相手役としてこれ以上ないパフォーマンスを発揮した。そして、本公演の2016年『ME AND MY GIRL』のディーン=マリア公爵夫人役で、彼女は新たな一面を示してみせた。それまでの可憐で華奢な魅力ではなく、どっしりとした大人の、それも貴族の女性を演じきったのだ。花乃まりあがトップ娘役だったこの時期に彼女が見せた成長は、芝居だけに留まるものではなかった。2016年のショー『Melodia』では二度目のエトワールを務めているし、同じく2016年の日本物ショー『雪華抄』でも存在感を見せた。特に『雪華抄』で芹香斗亜と組んだ織姫と彦星の場面は私の記憶に強く焼き付いている。

 思うに、彼女の特徴は「組んだ男役をより魅力的に見せる」ところにあるのではないだろうか。『雪華抄』はもちろん、例えば2018年の『タカラヅカスペシャル』(毎年末に開催される、各組の選抜メンバーによるショー)で他組の男役と組む場面でも仙名彩世は、男役という主役の脇にそっとたたずむようにして花を添えていた。宝塚の娘役は、決して主役になれない。主役は男役であり、中心は常にトップスターである。娘役はあくまでもトップ「娘役」であり、決してトップ「スター」と呼ばれることはない。そこには深く大きな差が確かに存在する。仙名彩世という娘役は、そのことを強く意識していたように感じる。彼女はいつ何時も男役を立てようとしていた。

 歌、ダンス、芝居、姿勢。すべてに圧倒的な実力を持つ彼女が花乃まりあの後任としてトップ娘役に就任すると聞いたときは上述の理由で驚いたが、それと同時に期待が膨れあがった。仙名彩世が、トップオブトップとして円熟期を迎える明日海りおと組む。「これは一体どうなってしまうんだ⁉」と思わずにはいられなかった。彼女のトップお披露目は、全国ツアー公演『仮面のロマネスク/EXCITER!!2017』だった。残念ながらチケットが取れず劇場で観ることは叶わなかったが、仙名彩世の凄味は映像でも十二分に伝わってきた。『仮面のロマネスク』のメルトゥイユ侯爵夫人ももちろんだが、『EXCITER!!』はそれ以上だった。 歌に踊りに彼女の実力は遺憾なく発揮されていて、特に後半の彼女がセンターに立つダンスの場面での輝き。一人でショーの一場面を担うことの出来る娘役は多くない。それもダンスで、となるともっとだ。同時期に月組でトップ娘役を務めていた愛希れいかも数少ないその一人だが、彼女と仙名彩世のダンスは方向性において大きな違いがある。愛希れいかのダンスはまさしく「パワフル」なダンスだ。2018年の『BADDY─悪党は月からやって来る』のロケットに続く場面で見せた「怒りのダンス」はその最たるものだろう。この場面で愛希れいかが見せたパフォーマンスは圧巻の一言に尽きる。その一方で仙名彩世はまさしく「エレガント」なダンスを踊る。『Santé!!』でのブールベルエトワールやフィナーレでのデュエットダンスでは、「腕を伸ばす」とか「足を上げる」といったシンプルな動作で違いを見せているし、『BEAUTIFUL GARDEN」のデュエットダンスで披露した驚異の体幹はまだ記憶に新しい。なんというか、「練り上げられている」のだ。ひとつひとつの単純の動作の組み合わせでも、極限まで練り上げればここまで「流麗」になるのか、と感動させられる。同時期に全く別方向の「一流」が揃っていたことは、観客にとっては幸せなことだったなと思う。

 そして、さきほども言ったように彼女の特徴は「相手役を魅力的にすること」にある。これはたとえ相手役が明日海りおであっても例外ではなかった。仙名彩世を相手役に迎えた明日海りおは明らかにパフォーマンスが向上したように思う。もちろんそれは彼自身がトップスターとして成長を積み重ねてきたからに他ならない。ただ、男役の努力だけではどうにもならないことがある。娘役との身長差だ。これは靴で調整しようにも限界が来る。決して大柄ではない明日海りおというトップスターには、娘役との身長差問題が付きまとっていたのではないだろうか(勝手な憶測ではある)。しかし明日海りお・仙名彩世はこの問題をいとも簡単に解決してみせた。仙名彩世が「常に膝を折る」という方法で。芝居で、ショーで、デュエットダンスで、会見で、囲み取材で、誌面で、仙名彩世は常に膝を折り、明日海りおよりも身長を低くしたのだ。そして私生活でも彼女はヒールのある靴を履かず、自分を小さく見せる努力を欠かさなかった。2017年末だったか、それとも2018年初頭だったか、時期が定かではないが、スカイステージ(CSの宝塚歌劇専門チャンネル)の特番で愛希れいか、綺咲愛里と共演した際も彼女はヒールではなかったためひと際小さかった。公称の身長も三人の中で最も低くはあるのだが、「普段からヒールは履かないようにしている」という彼女の言葉が衝撃だった。

 

 

 

 仙名彩世の娘役の美学は、明日海りおさえもより輝かせた。具体的にはダンスや様々な所作の安定感が増したのだ。勝手な推測ではあるが、おそらくヒールの高い靴を履く必要がなくなったのだと思う。彼女がトップ娘役に就任して以降、芹香斗亜や柚香光と明日海りおの身長差が大きくなったとファンの間では噂になったし、私もそう感じている。なにかひとつ安定感が増すようになると、芝居や歌にも良い影響が出る。明日海りお・仙名彩世というコンビは互いに良い影響を及ぼし合っていたのではないだろうか。

 トップ娘役就任以降、彼女は再演の機会に恵まれることがなかった。もちろんゼロではなかったが、『仮面のロマネスク』も『あかねさす紫の花』も本公演ではない。例えば『THE SCARLET PIMPERNEL』や『エリザベート』などの宝塚の名作にヒロインとして出演する彼女を観たくなかったと言えば嘘になる。しかし、仙名彩世はある意味でもっと大きな足跡を宝塚歌劇団へ残すことになった。それは2018年の『ポーの一族』によって、である。この作品は萩尾望都の同名作品を原作に小池修一郎が脚本・演出を担当したミュージカルで、同作品初めての舞台化となった。仙名彩世がシーラ・ポーツネル男爵夫人を演じたこのミュージカルを、私は劇場で観た。観てしまったのだ。忘れもしない2018年の1月25日。タカラジェンヌたちが入団のきっかけとして口にする「ときめき」を、私は知った。いや、「ときめき」という温かな言葉はあの時の私には適当でないかもしれない。『ポーの一族』を観て私が抱いた感情は、むしろ「恐怖」に近かった。戦慄。そう、「戦慄」が最もあの感情に迫る言葉ではないだろうか。明日海りおが、仙名彩世が舞台上に生み出した「極上の美」に、私は震えた。望まぬ形でヴァンパネラとなり、永遠の時を生きることになったエドガーを明日海りおは完璧に演じていたし、それに引っ張られるように、仙名彩世も神がかり的な表現力を示していた。物語の序盤では初々しい少女であるシーラを、終盤では人間の血を吸うヴァンパネラとして生きるなまめかしいシーラを演じきった。ヴァンパネラになる前のシーラと、ヴァンパネラになって数十年が経過したシーラ。彼女はそれを演じ分けていた。事実私は何もセリフを発さずにただ階段から降りてきただけのシーラを見て「…全く違う人間に、いやヴァンパネラになっている」と思い、ゾクッとした。一切の誇張なく、寒気がしたのだ。余りの美しさと、彼女が積み上げてきたものの途方さに。それはもちろん明日海りおも同じで、少年エドガーと、そして姿は少年のままヴァンパネラとして生きるエドガーと、その表現は見事としか言えなかった。「人間がここまで美しくなれるのか」「こんな作品が創れるのか」と、私の人生は完全に変わってしまった。たった三時間で。仙名彩世は、宝塚歌劇における娘役の一つの頂に至った存在だと私は思う。

 彼女の名前は宝塚歌劇団にずっと残っていくだろう。『ポーの一族』の初代シーラとして。何度再演されようと初代の名前は変わらない。初代オスカルは榛名由梨であり、初代トートは一路真輝なのだ。

 このように、仙名彩世は宝塚の娘役としての新たな道を示したように思う。彼女の存在は、他の娘役たちにとっての道しるべであり、大きな刺激になるのではないだろうか。退団公演の『CASANOVA』が千秋楽を迎えるまで、彼女は成長し続けるはずだ。

 

 最後に、蛇足ではあるが、仙名彩世さんへの思いをここに残しておきたいと思う。

 仙名彩世さん。あなたは私の光です。2018年の1月、私は自分の無能に打ちのめされ、足を止め、嘆いてばかりいました。あの日もただ何か少しでも気分が晴れればと、大劇場へ足を運んだことを覚えています。しかし、慣れ親しんだ宝塚の舞台があの日は全く違うものに見えたのです。感動、恐怖、戦慄。それらがないまぜになったあの感情をもう一度体験しようと、私は努力しているのかもしれません。遠く遠く、影すらも見えないあなたへと向かって、私は震えながらもう一度歩み始める決意が出来たのです。正直、あなたにはずっと宝塚の娘役でいて欲しいとさえ思います。ですが、それは私の愛する宝塚の形ではありません。宝塚の「美」は常に継承されるものであって、そこに留まるものではないのだと、私は思います。あなたは私の光です。本当に、本当に、ありがとうございました。