感情の揺れ方

それでも笑っていたい

日々のこと(2022/08/15~)

感染症と孤独による不調

 東京に来てから半年が経った。まだ自分がこの街にフィットしているという感覚はない。いつかここが自分の街ですと、躊躇いなく滑らかに言える日が来るのだろうか。何かを為すのが先か、しっぽを巻くのが先か。それはそれとして、夏が長い。日本の四季は一瞬の春、すべてを洗い流す雨季、生命を脅かす長すぎる夏、刹那の秋、すべてが雪に閉ざされる冬によって構成されている。とにかく天候が体に堪える国。前回の更新からは自分の時間を確保できるような日が続いている。その一方で精神状態はあまり良くない。ここからはとりあえず調子が良くないですという話が続くので、次の見出しから読んでもらっても大丈夫です。新型コロナウィルスの猛威や新生活による環境変化がスリップダメージになっているのは相変わらずで、それが危険な水域にまで近づいているような気がする。めちゃくちゃ調子が良い日もあるけれど。帝国劇場で上演されていた『ミス・サイゴン』のチケットを確保していたのだが、巡り合わせが悪く、公演は中止となってしまった。それが8月の末で、以来ずっと調子が上がって来ない。一体自分は何のために頑張ってきたのか、頑張っているのか、頑張っていくのか──そんな疑問がずっと鎌首をもたげ、蛇のようにこちらを睨んでいる。その疑問に答えを示すことができず、しかし日々は続いていく。修士生活の4分の1が早くも終わってしまった、手元にあるのは単位くらいのもので、負債の感覚は日に日に強くなっている。世界、あらゆる「自己」以外──この場合「自己」と「自己自身」も区別される──への負債の感覚。初めのうち、初めのうちというか、まだヘラヘラすることが出来ていた一ヶ月くらい前までは、異常な体重の減少も含めたこの不調も金銭面に余裕ができれば回復するだろうと思っていたのだが、7月分のアルバイト代がどかんと入った現状でも調子はさらに悪くなっているので、目論見は外れてしまった。たぶんだけれど、「お金がない」も自分にとってはある種言い訳のひとつなのだと思う。お金がないから食事が取れなくて体重が減って調子が悪いんですよ、というひとつのストーリーに色々なことを回収させたいのだ。ざっくりと言ってしまえば、ご飯が食べられないのはお金がないからではなく負債を抱えた自分の体積が増えることを許せないからなのだと思う。じゃあいつになったらそれを許せるようになるのかが次の問題で、答えは思いつかない。修士の二年間が人生で一番しんどいと、先達が口をそろえて語る以上、少なくともあと一年半はかかるのではないだろうか。なにはともあれ、幸福へ向かう推進力みたいなものを身につける必要がある。苦しい場所で生きることに慣れてはいけないし、苦しい生活をしたからといって良いものが生み出せるわけではない。孤独な流浪が『神曲』を書かせるわけではないのだ。私たちはクリエイターが命を削って生み出したものを抱きしめるだけではなく、片手間に作られたものに心酔したって構わない。ものの向こうには人がいる。

 

読んだ本や、毎日の暮らし

 自らの不調をつらつらと残すのはこれくらいにしておきたい。調子は悪いけれど、本は読んでいる。読んでいるというか、目を通してはいると表現する方が正確かもしれない。以下、最近読んだものの一覧。

 

 

 

 

 

 だいたいこんなところで、自分の研究にはまったく関係のない本ばかり読んでいる。研究には関係がないけれど、創作には関係があるので良しとしたい。自分が書きたいのは人間の「祈り」なのかもしれないということに最近気がついた。辞書的な意味でもキリスト教的な意味でもない「祈り」。それはそれとして、最近読んだ中で一番面白かったのは次の本。

 『方法序説』の筆者として知られるルネ・デカルトの遺骨は散逸しながらもヨーロッパ各地で受け継がれてきた。それはまさしく聖遺物のように──。「近代」というものを生み出した人間としてのデカルトの遺骨を巡る人々の動きを中心に、綿密な取材と徹底した時代考証キリスト教信仰の歴史やそもそも「近代とは何か」という命題にまで迫るノンフィクションで、これがめちゃくちゃ面白い。この作者の他の著作がどんどん翻訳されるようになって欲しい。

 日々の生活についてはあまり書くことがない。ぼちぼち自炊をしている。最近なんとなくnoteのアカウントを作ったので、日常生活のことはそちらに書こうかなと思ったりしている。理性ははてなブログに、悟性はnoteに捧げます。

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