感情の揺れ方

それでも笑っていたい

劇評:上村聡史『ガラスの動物園』

 家族とはなにか。トム・ウィングフィールドが追憶の中で示す「家族」とは牢獄であり、棺桶だった。夜な夜な家を抜け出し街を彷徨うトムが焦がれたのは、「ここではないどこか」を鮮やかに描き出す映画、あるいは死地から巧みに抜け出す脱出マジックだった。華やかな南部で過ごした若い頃を忘れられない母のアマンダ、足に問題を抱え人前ではパニックになってしまう姉のローラ。トムは彼女たちのことを憎みながら、しかし愛してもいたのではないだろうか。ローラが階段から落ちた時、アマンダとトムはすぐに彼女のもとへ駆け寄った。衝突を繰り返した末、父と同じようにセントルイスを出たトムは、最後に「グッドバイ」とローラに告げた。ガラスの動物園──トムが言うところのシンボル──で、ユニコーンは他の動物たちとうまくやっていた。しかし来訪者であるジムの手によって、その角は折られてしまう。暗示されるローラの行く末は、観る者の胸に切なさを落としていく。ローラは決して特別な存在ではなく、周囲と同じように、同じであるフリをして生きていくしかないのだ。

   

 「底の底」という様相のウィングフィールド一家が住むアパートに代表される簡素な舞台装置、「上から降りてくる」演出なども素晴らしかったが、やはり特筆すべきは各出演者の見せた演技だろう。中でもアマンダ役の麻実れいが見せた演技にはすさまじいものがあった。岡田将生演じるトムは狂言回しの役割も担っており、ときにはいわゆる「第四の壁」を破ってこちらに話しかけてくることがある。アマンダにそのような役割はなかったが、ある意味でトム以上に、「観客を舞台に引き上げる」あるいは「観客を『ガラスの動物園』の住民に加える」ような力があった。どのように表現すればいいのか、安易な共感を許さない、「お前も家族の一員だろう」と言わんばかりの迫力。自分が責められているような、自分があのダイニングテーブルに腰かけているような錯覚に襲われるのである。そしてローラを演じた倉科カナも素晴らしかった。立ち姿、振る舞い、発話。そのどれもが卓越しており、彼女の演技を見るためにまた劇場へ足を運びたいと思わされた。そしてやはり岡田将生。ロングコートがあんなにも似合う人間がいるのか……ということは脇に置き、トムという人間のもつ幼さと狂気、憂鬱と焦燥といった二面性を的確に表現していたように思う。第二幕から登場するジムを演じた竪山隼太も良いパフォーマンスを見せていた。