感情の揺れ方

それでも笑っていたい

週間日記(2020/12/28~2021/1/3)

 12/28(月):新しい一週間の始まり。同時に、一年の終わり。金曜日にはもう2021年になる。今年はもう、振り返るような年でもない。どんどん過ぎていって欲しい。朝、ぼんやりと起きる。荒れに荒れていた胃腸は落ち着きを見せ始めていて、穏やかな年末に向けて希望が持てそう。朝ご飯を食べながら、録画していた「いろはに千鳥」を見る。おそらく5年くらい前の沖縄で収録されたのであろう映像を見ていると、感覚がおかしくなってくる。縦軸で、かつ一方的なコミュニケーション。ちょっとした『君の名は。』感覚。またすこしぼんやりとした後、車に乗って外出。咳が完全に収まったわけではないので、先週に引き続き内科を受診する。年内最後の開院日だったせいか、いつもよりすこし待ってからの診察だった。状態に合わせて薬の量は減った。油断大敵。受診後はそのままいつも使っているガソリンスタンドに行って、洗車をしてきた。年内最後の洗車。おそらく車に乗る機会はまだあると思うけれど、一年の感謝を込めて汚れを落とす。ちょっと前から導入されたエアコンプレッサーで車体に残った水滴を吹き飛ばしていると、定期的に報道される「同僚の肛門にエアコンプレッサーで…」みたいなニュースを思い出す。どうしてこんなものを他人のそんなところに…という思いが強い。自分で使ってみると余計に。洗車場はとても混雑していた。自分と同じような考えの人が多かったのかもしれない。正午くらいに帰宅して、すこし休憩してから家のことをする。掃除機をかけたり。今年は特に大掃除はしなかった。そのせいかなんとなく部屋にあるものの量がキャパシティを超えてきているような気もする。2021年もそんな感じで行きましょう。午後は作業をしたり。夜は録画していた「おげんさんといっしょ」を見た。ようやく。なかなか見るタイミングがなく。番組途中で星野源が話していた、「何も説明がされない映像をテレビで流すことの豊かさ」について考えたりする。テレビとは。説明とは。エンターテインメントの端っこで生きていたいなと思ったりする。

 

 12/29(火):年の瀬が加速してきた。29日って。28日と29日の間には大きな違いがあるような気がする。16歳と17歳くらいの違いがある。なんの話?ぼんやりと起きる。もうテレビは完全に年末進行で、レギュラー放送していたものはまったく流れていない。TBSにいたっては佐藤健上白石萌音のドラマを一挙再放送していて、テレビ欄がスッカスカになっている。他に流すものはないのかと思うけれど、それはそれで需要があるのだろう。再放送と言えば、11月くらいにニュースで見た『アンナチュラル』の再放送は、私が住んでいる地区ではされないらしい。一部地域を除いて、の一部地域だった。悲しい。アマゾンプライムで見ようと思っていたら、いつの間にか期限が過ぎて観れなくなっていた。輪をかけて悲しい。朝ご飯を食べながら、録画していた「ぴったんこカンカン」のスペシャルを見る。星野源新垣結衣らをゲストに迎えた「逃げ恥」特集。新垣結衣さんのかわいさったらない。あと古田新太のクレイジーさ。次の仕事があるからとゴーヤを40秒だけ炒め、お酒を飲んでから空港へ向かうクレイジーさ。古田新太のカッコよさったらない。昨日の「おげんさん」から引き続き、ずっと星野源藤井隆を見ているような気がする。古田新太作のゴーヤチャンプルーを食べて「生ですよねこれ」と言う石田ゆり子もよかった。ぼんやりと午前中を過ごし、お昼前くらいから外出。昨日洗ったばかりの車に乗って。案の定運転納めにはならなかった。人生とはそういうものです。お昼ご飯にラーメンを食べた。外食ラーメン納め。これはおそらく本当の納めになるだろう。栗東の「真咲雄」へ行く。本来なら火曜日が休みだけど、年末なので今日は変則的にオープンしていた。年末っぽい。ラーメンを食べ終えて、そのままさっさと帰宅。すこし眠ってから、午後は作業を進める。HDに録画している宝塚の作品をダビングしながら。夜は「ただ今、コント中」を見る。前回放送のあとネット記事でこき下ろされた濱家が良かった。10年くらい前まではこういう類のコント番組は結構放送されていたような気がするけれど、いつの間にか特番でしか見なくなったような印象がある。レッドシアター直撃世代としては寂しい。なんというか、昨日すこし触れた「テレビは説明をしすぎる」という話題に関係があるような気がしてきた。コント、言い換えれば広義の「劇」は、それが作り込まれれば作り込まれるほど説明は省かれる。厳密に言えば「文章、音声での明確な説明」は省かれる。片手間で見聞きして分からないものをテレビで流すことの意味が、あまりなくなってきたのかもしれない。視聴者にとってだけでなく、テレビ側の人たちにとっても。ちょっと作業をしてから眠りたい。

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のうとん。

 12/30(水):もういくつ寝るとお正月。ふたつ。ぼんやりと起きる。いや、大晦日の日に夜更かしすることを考えるとあとひとつなのだろうか。初夢問題と根っこの部分が似ているような気がする。朝ご飯を食べながら、録画していた「ハラいたちの赤点くん」を見る。昨日放送されていた特番。この二組の冠特番を見ない手はない。ゆるい雰囲気のロケVTRにやいやい言う山内と岩井の雰囲気が良かった。今日は一日テレビを見続ける日だった。まずは録画していた「刑事コロンボ」の「自縛の紐」。犯人に対して怒りを露にするコロンボはあまり見られない。前回は確か医者が犯人の回だったような記憶がある。コロンボを見終えて地上波をザッピングしていたら「今、一番やりたいネタ祭り」が放送していたので、チラッと見る。M-1で振るわなかったアキナがしっかり面白かったので安心した。そこからの午後は作業をしたり。年の瀬でもやらなければならないことはある。夜はまず「有吉の壁」。3時間のスペシャルだったけれど、そのうち1時間くらいは今年一年の振り返りにあてられていたので、実質2時間くらい。年間チャンピオンがパンサーになったのはなんとなく一番良い形だったような気がする。サンキュー。その次に「バナナサンド」。上白石萌音さんの癒される感じはなんなんでしょうか。バナナマンサンドウィッチマン、そして上白石さんがただババ抜きをして焼肉を食べるという、リラックスバラエティ。TBSがバナナマンに大晦日を任せる気持ちもなんとなく分かる。その後は「クイズ正解は一年後」。今も見ながらこの日記を書いている。おぎやはぎとひな壇で暴言を吐いている有吉が一番好きかもしれない。

 

 12/31(木):大晦日。ビッグ晦日。おそらく一年で一番大きい晦日だろう。そんな感じなので、今日は一日を家で過ごした。いつもより遅い時間に起きて、ぼんやりと朝ご飯を食べる。なんとなくチャンネルを合わせた特番が全国各地から芸人やアナウンサーが中継を繋ぐみたいな構成になっていて、ものすごく年末っぽかった。年末というか正月というか。伏見稲荷の近くで焼き芋(なぜ)を食べるミルクボーイ。本人たちのしっくり来ていない表情に笑う。お昼過ぎからは「探偵ナイトスクープ」の総集編を見ていた。「ゴジラと結婚したい女の子」や「鮎川誠にそっくりだったお父さん」も泣けるくらいよかったけれど、笑ったのは「ラスポテトを家で作りたい」と「おならをする瞬間の肛門を撮る」。いやもう本当に馬鹿みたいで最高だった。ナイトスクープってこういう感じだよね、という。調べてみるとあれは正しい形のラスポテトではないらしいけれど。午後もぼんやり作業をしたり。そんな感じで過ごしてから、夜は「ガキの使いやあらへんで」大晦日スペシャルを見る。冒頭でいきなり神田沙也加と井上芳雄のミュージカルコンビが登場して驚いた。しかも全力。今年は色々と大変な状況で収録も上手くいかなかったのか、例年とは違う演出が目立った。特に過去の放送分を振り返る総集編に眺めの枠が取られていて、困難な状況が垣間見える。夜食の時間帯に年越しそばを食べた。知り合いが送ってくれた山形県の「冷やし肉そば」。今までに食べたことがないような味で、美味しかった。日本中にまだ自分の知らない味があるのだと思うと、ワクワクする。いつのまにか年越しを迎えて、そのままベッドに入る。さよなら2020年。あらゆるエンターテインメント、いやあらゆる人々が窮地に立たされ、崖っぷちのその先に歩み出さなければならなかった人たちが確実に存在した2020年が終わります。私に何が出来たのか、これから何をしなければならないのか。色々なことを考えてしまいます。個人としてはほとんど何も生み出すことの出来ない一年でしたが、たくさんの方に支えていただきました。2021年もよろしくお願いします。

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年越しそば。

 2020/1/1(金):新年です。明けましておめでとうございます。賀正。2021年ってもう、完全にSFの数字だ。ゆっくり起きて、朝ご飯なのかお昼ご飯なのか分からない時間にご飯を食べる。お正月なので、おせち。お雑煮。季節の行事をわりとしっかりやる家庭な気がする。自分以外と比べたことがほとんどないけれど。ちなみに我が家のお雑煮は白味噌に丸餅です。おせちをつつきながら、録画していた「バナナマンのせっかくグルメ」大晦日スペシャルを見る。ついにバナナマン冠番組で大晦日のテレビに殴り込みをかけてきた。ものすごいアットホームな番組で。悪いインターネットでは「誰があんな番組見るんだ」というコメントを見かけることもあるけれど、テレビ局側の狙いはなんとなく分かる。「ガキ使」はずっと見る必要があって、途中からだとなんとなく分からないところが出てくる。格闘技はちょっと殺伐としすぎているし、ゆったりした大晦日にはならない。「紅白」はあまり興味のない出演者のパフォーマンスも見なければならない。なによりこういう番組は片手間に見ることが出来ない。「せっかくグルメ」ならそういうことがない。ただぼんやり眺めていればいいし、スマートフォンをいじりつつザッピングをしてもいい。大晦日のゆったりした雰囲気にはマッチするんじゃないかと思う。そしてバナナマンのふたりにはトゲがない。それが一番良いのかもしれない。一乗寺の極鶏に行きたくなりました。夕方は昼寝をして、夜は大量のビールを飲みながらまたテレビを見て過ごす。平和なお正月。良い気分のまま眠ります。

 

  1/2(土):今日もぼんやりと起きる。初夢は、自分が主演でもうすぐ幕も上がるのにセリフも覚えていないしどの衣装を着たらいいかも分からなくてめちゃくちゃ焦る、という役者がときどき見るタイプの悪夢みたいな内容だった。なんで?舞台に上がる階段の一段一段が異常な高さで「労災が起こる」と思ったのも覚えている。縁起としてはどうなんでしょうか。富士山の気配は欠片もありませんでしたが。朝ご飯を食べながら、「せやねん」の特番を見る。そういえば今日は土曜日だった。2021年もかつみさゆりの二人は変わらず、安心しました。午前中はぼんやりとテレビを見続ける。10時半からBSで放送していた宝塚の新春特番を見ながらこたつでウトウトしてしまった。12時からは「オール吉本初笑いスペシャル」。珠代、パンティーテックス。「CMのあと、珠代パンティーテックス」というテロップだけで笑う体になってしまった。見取り図はM1での「ごぼう前」という噛み方をいじり倒されていた。午後からは新年初の外出をして、友人と会った。こういうご時勢であまり友人と会うのも奨励されてはいないのだろうけど、まぁ。それはそれとして。1月2日ということもあってかほとんどのお店は営業しておらず、駅前の唯一開いていた喫茶店へ流れ込んだ。混雑していたわけではなかったが、自分たちと同じような状況になったのであろう人たちがちらほら見受けられた。三が日はどのお店も開いていません、みたいな方が全体としては幸せなのかもしれない。幼馴染みとも健康診断の話とかをするようになって、寄る年波を感じた。怖い。夕方には解散。夜は『逃げるは恥だが役に立つ』のスペシャルを見る。全体的に教習所で見せられる教則ビデオみたいな感じがしたけれど、それはそれとして野木亜紀子は怒っているし、時代を見つめている。そのなかで自分が何を表現しなければならないのかを考えている。果たして自分はどうなのだろう。ちょっと変わった、ともすれば奇抜な服に身を包むみくりや平匡さんがこの社会では少数派でありながら周囲を巻き込んでいくように、荒野を誰かと共に生きていくなんてことが出来ているのだろうか。幼馴染みと話した自分の生き方みたいなものについて考えながら眠りたい。病院に付き添ってくれる人のあてがなく、親族に「だから結婚しておけばよかったのに」となじられるゆりちゃんに、未だ見ぬ自分を重ねてしまって仕方がない。

 

  1/3(日):昨日とは打って変わって、一日を家で過ごす。咳喘息の回復がここに来て停滞していて、精神的にしんどくなってきた。咳で起きることはほとんどなくなってきたけれど、入眠するときのえげつないやつがしんどい。えげつないんです。本当に。慣れてきたけど、慣れたくもない。2021年の滑り出し、最悪です。ぼんやりと朝ご飯を食べながら、録画していた「東京 BABY BOYS9」をようやく見る。ハナコを襲った諸事情の影響で緊急生放送ということになっていて、ザ・マミィ酒井さんの登板間隔がかなりハードだった。酒間天童ってなに?無性にラーメンが食べたくなったので外出しようかなと思ったけれど、営業していなかったときのダメージを考えてやめにした。三が日。三が日の正しい選択。お昼からは家のことをした。掃除機をかける。新年初掃除機。2021年も身の回りを整えていきましょう。午後は作業。夜は「イッテQ」と「マツコの知らない世界」を見ながら過ごす。自分が好きなものを「語る」ためにはそれなりの訓練が必要であり、読書感想文はその一環だなぁと思ったりした。あと礼節を学ぶこと。『天気の子』が地上波で初放送されていたけれど、見なかった。決して嫌いな作品ではないし、好きな部分もあるけれど、あの作品で描かれる「惨禍との向き合い方」は個人的に受け入れられない。絶対に。「水没した街にも住んでいた人がいる」というロジックは作中で嫌悪されていた「大人」のロジックそのものでクリティカルではない、という考えも分かるけれど、あの作品ではまさしくその「大人」たちをただの悪、それも「唾棄すべき悪」としか描いていない。換言すれば物語と風景を稼働させる「装置」でしかない。だからこそ「世界か彼女か」という選択において「彼女」を選んだときに切り捨てられる「世界」の描写が薄く、その「世界」に確かに存在していたであろう人々が二重の意味で蔑ろにされている。結果的に「彼女」を選び取ることの意味までも軽くなってしまっているように思う。「雨が降り続いて東京は沈んじゃったけど好きな人は生きているし、たまたま高台の集合住宅に移住できた知り合いのおばあさんには挨拶できたし大丈夫だろう」みたいなキャラクターの動きがそれに拍車をかけていて、あのシーンは好きではない。

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