感情の揺れ方

それでも笑っていたい

デュ・モーリア著『レベッカ』

ゆうべ、またマンダレーに行った夢を見た。 

  一生忘れられない書き出しがあるとして、それがこの一文ではないかと思う。謎めいた書き出し。「マンダレー」という言葉の持つ、独特な響き。けれど、ただ一度この書き出しを読んだだけでは、決して鮮烈なまでの印象が残ることはないだろう。下巻のラストページまでを読破した後、およそほとんどの読者はすぐに上巻を手に取り、この書き出しをもう一度読むはずだ。そして「ゆうべ、またマンダレーに行った夢を見た」という言葉が冒頭にあることに感動するだろう。

 「名作」、あるいは「傑作」といった形容を受ける文学作品にはいくつかの条件があるように思うが、その条件のひとつが「再読に堪える」なのではないだろうか。その点に関してこの『レベッカ』という作品は完璧と言って良い。それほどの物語がそこにはある。「わたし」の愛した「マンダレー」がすでに過去のものであることを示唆する冒頭に始まり、現在から過去を回想しつつ、読む者をその「マンダレー」へと引きずり込んでいく。「わたし」の愛する夫マキシムには、妻がいた。レベッカという名前のその女性は、ちょうど一年前に事故で亡くなった。しかしレベッカはそこにいる。未だになお、マンダレーにはレベッカの影が残っていて、「わたし」はその影に苦しめられる。レベッカの情報は小出しにされるのだが、それが本当に上手い。美しく社交的で、教養もある。「わたし」にないものをすべて持っている。レベッカの影が濃くなればなるほど、「わたし」とのコントラストが強くなればなるほど「わたし」は苦しみ、読者もまたそれぞれの心にレベッカを「理想の奥方」として描いていく。その誘導の巧みさ。最後まで名前すら明かされない「わたし」と、どこにもいない「レベッカ」の存在感との対比が、この物語に与える影響は大きいように思う。

 名前すらない「わたし」のアイデンティティを支えるものは何だろう。「マキシムへの愛」ももちろんだが、それ以上に彼女の輪郭を濃く描くのは「レベッカへの憎しみ」ではないだろうか。ヴァン・ホッパー夫人に仕えているとき、マキシムの妻になりミセス・デ・ウィンターとしてマンダレーで過ごしているとき、仮装舞踏会でゲストの相手をしているとき。「わたし」は自信不足でオドオドと初々しかった。メードに指図することすら憚られた。書斎の調度品、マントルピースやペンに至るまで、そのすべてにレベッカの影を感じ、憎んでいた。しかしマキシムがあの事実を「わたし」に打ち明けたとき、「わたし」は何と言ったのか。

「マキシムはレベッカを愛していなかった、マキシムはレベッカを愛していなかった」

 マキシムの所業に対する糾弾など「わたし」の頭には一切存在せず、そこにあるのはただ「レベッカに勝った」ことに対する歓喜のみなのだ。マキシムをかばい、彼を愛することによって、「わたし」は本当の意味で愛を手に入れ、ミセス・ド・ウィンターへと変貌する。自信なさげで、初々しかった「わたし」はもうどこにもいない。ハウスメードに厳しく接することへの躊躇いも、ダンヴァーズ夫人に怯えることもない。愛と歓喜によって、「わたし」はそれまでとまったく違う存在になった。

 愛とはなんだろう。果たして、マキシムと「わたし」との愛は、勝利したのだろうか。冒頭でふたりはマンダレーを去り、つまらなくも穏やかな日常を過ごしている。しかしそこにあるのは何とも言えない陰鬱さだ。彼らはやはり「マンダレー」にとらわれている。だからこそ「わたし」はマンダレーを夢に見る。あの書き出しの一文が、読む者の心に美しく刻まれていく。

 

レベッカ (上) (新潮文庫)

レベッカ (上) (新潮文庫)

 

 

 

レベッカ (下) (新潮文庫)

レベッカ (下) (新潮文庫)