感情の揺れ方

それでも笑っていたい

武内宜之監督 映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』

 果たしてこの作品は、本当に「タイムリープもの」であると言えるのだろうか。ポスターを見ればそこには「繰り返す夏休みの1日、何度でも君に恋をする」とあるし、作品自体へのイメージも『時をかける少女』などのタイムリープものと似ているような印象を感じさせる。けれど、それでも、『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」という作品は、それらとはまったく違う構造を持っているように思えてならない。

 まず、主人公の島田典道は、ある夏休みの登校日に想いを寄せるクラスメイトの及川なずなが転校してしまうのを阻止するため、彼女が持っていた不思議な玉を宙に放り投げることでその一日を何度でもやり直す…というのがストーリーラインの大枠になっている。しかし。典道がやり直すこの「一日」は、典道の想像、あるいは空想でしかないのだ。「こうだったらよかったのに」という、「if」の域を出ない「一日」は決して典道やなずなの現実を変えはしない。そのことは物語の途中から明白で、繰り返す一日の中で奮闘する主人公は存在しない。現実世界から「もしも」への逃避行、つまり「駆け落ち」は、どこまでも独りよがりのように映る。自分の脳内にしかなかった「もしも」から帰還した2学期の初日、なずなのいない教室で典道は出欠を確認する先生からの呼びかけに応えることが出来ないほど憔悴している様子で、結局何度も繰り返した(気になっている)あの一日には何の意味もなかったのだという、なんとも苦い結末をこの映画は迎えるのだ。この作品における「if」がおよそ何の意味も持たず、「時間は巻き戻らないのだ」という事実は冒頭に続くプールのシーンでなずなの頬にとまったトンボを典道が捕まえられなかったことがどうしようもなく示しているのだけれど*1、それでも典道の「if」はビターでやりきれない。

   

 この「if」が独りよがりに思える理由はもうひとつあって、それはこの「もしもの一日」が「こうであればいいのに」という「理想」ではなく、とどのつまり「誰もなずなに向き合わなかったこと」に対する懺悔のように感じるからだ。どうしようもない現実の世界で、なずなは家庭に居場所を見いだせない。父が死んで一年も経たないうちに母は別の男と結婚をし、そのせいでなずなは転校をしなければならない。だからこそ彼女は典道を花火大会に誘おうとするのだが、50mの水泳競争に勝った方を誘うという賭けに失敗し、勝利した典道の友人である安曇祐介を誘うことになってしまう。なずなに気があった祐介だが典道の気持ちも知っていたため、二人を引き合わせようとなずなとの約束をすっぽかす。家出をしようとしていたなずなはそれが原因で母親に連れ戻され、一部始終を見ていた典道が不思議な玉を放り投げて「もしもへの逃避行」が始まる。

 「もしもへの逃避行」が始まるまで、誰もなずなと向き合っていないのだ。誰も彼女の気持ちを慮ることはなく、また自分の気持ちを彼女に伝えることもない。祐介も典道も、ずっと口ごもって自分の言葉を伝えることはないまま、「現実」は「もしも」へとスライドしてしまう。典道と祐介とのやり取りも、典道がなずなに伝えた内容も、いやむしろ何かを語ったように見えるなずなすらも典道の想像でしかなく、それはどこまでいっても「if」でしかない。この、決して相手を伴わないただの独白による懺悔は「及川なずな」というキャラクターをないがしろにしているように思えてしまって、どうしても好きになれなかった。

 広瀬すずが演じる及川なずなにはアンバランスでコケティッシュな魅力があったし、回転や円形、球状のモチーフに変質的なまでのこだわりを感じさせる演出も、アニメーションならではという雰囲気があって良かったと思う。

 ただやっぱり、そのモチーフにこだわるあまり校舎のデザインが90年代とは思えなかったし、駆け落ちの終着点はトンボを捕まえることが出来なかったあのプールという原作に準拠した方が好きだったかなという印象がある。

 

 

*1:トンボは前にしか進むことが出来ない