感情の揺れ方

それでも笑っていたい

劇評:『ラ・マンチャの男』

 『ドン・キホーテ』。スペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスによる小説。誰もが知っているであろうこの作品を舞台化したのがデール・ワッサーマン。タイトルは『ラ・マンチャの男』。1965年にオフ・ブロードウェイで初演されたこの作品は、1969年に日本での初演を迎えた。主演は当時の市川染五郎。そして2019年。私はこの作品を初めて観ることになった。主演は松本白鸚。そう、『ラ・マンチャの男』という作品の主演は、1969年から2019年の50年間にわたって、同じ人物が務めているのである。途方もない年月、まさしく歴史そのものがこの『ラ・マンチャの男』という作品を貫いているのだ。そして今、この劇評を書いているまさに今、なんと言えば良いのか、私は批評の無力さとでも言うべきものに直面している。この作業に取り掛かる前から私の心に去来していた、「自分の批評ごときでこの作品のすごさを伝えられるのか?」という諦めにも近い思いが、鮮やかな現実味を帯び始めている。あのとき私がフェスティバルホールで感じた興奮や心の震えを、伝えることが出来るのだろうか?しかし、私は書かねばならない。このエントリーを書くことで、『ラ・マンチャの男』のすごさが誰か1人にでも伝わるのなら、それほど嬉しいことはないからだ。

 まず、『ラ・マンチャの男』というミュージカルはセルバンテスの『ドン・キホーテ』をストレートに舞台化したものではない。このミュージカルの主人公はミゲル・デ・セルバンテスであり、この物語はセルバンテスの物語なのである。まず、舞台は16世紀末、スペインはセビリア。薄暗い牢の中に、教会を侮辱した罪でセルバンテスが従僕とともに投獄されてくる。囚人たちはこの新入りを暇つぶしとばかりにこづきまわすが、騒ぎを聞きつけた牢名主がセルバンテスを詰問、挙句に裁判までも始めようとする。なんとかこの場を納めて時間を稼ごうとするセルバンテスは、即興劇の形で申し開きをしようと思いたつ。その作品が「遍歴の騎士、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」の物語、すなわち『ドン・キホーテ』だったのである。

「もはやただのアロンソ・キハーナではない。

  人呼んでラ・マンチャドン・キホーテ!」

 『ラ・マンチャの男』において、『ドン・キホーテ』は劇中劇なのである。その劇中劇は原作の展開に沿いながら、風車の場面、ドルシネアへの狂気にも似た献身、ムーア人、鏡の騎士など、重要な場面を巧みに生かし、構成されている。そしてこの作品は劇中劇という二重構造になっているだけではなく、セルバンテスアロンソ・キハーナを演じ、そしてそのキハーナが自らを遍歴の騎士と思いこんだ姿のドン・キホーテまでも演じるという、三重構造にもなっているのである。この複雑な構造が、『ラ・マンチャの男』という作品の複雑さ、深さを生み、どこか悲痛とも言える陰影を刻んでいるのだ。そしてその三重構造の要を担うのが、主演の松本白鸚である。私がこの作品を観た後に感じたのは、いや、思い知らされたのは、「松本白鸚」という舞台人の圧倒的な凄味、そして「役者という存在それ自体の凄味」である。50年にわたって同じ役を演じるということの途方もなさ、そして積み上げられてきたものの重み。すごかった。素晴らしかった。何より、凄まじいものがあった。セルバンテスとキハーナ、そしてドン・キホーテ。この三役の滑らかな演じ分け、立ち振る舞い、言葉の強弱…。魂が燃えていると思った。三役という難しさに加えて、この作品はセットがシンプルで、大きな舞台転換はほとんどない。はけて、切り替えて、はけて、切り替えて…ということが出来ないのだ。その中にあって、松本白鸚という役者のすごさ。もちろん甲冑を着ている、着ていないといったヴィジュアル的な差異はあるにしても、全く違うのだ。セルバンテスと、キホーテと。言葉を発さずとも、ただ立っているだけで今彼が誰なのか分かるのだ。板の上で、そして観客を前にしてここまでのパフォーマンスが出来るという事実に心を打たれた。

 しかしこの傑作が傑作たる所以は、無論、松本白鸚のパフォーマンスだけではない。『ラ・マンチャの男』、そして『ドン・キホーテ』という作品全体を貫く、「理想論」と「理想論の正当性」という簡素で簡潔なテーマに言及しなければ、この劇評を書く意味はないと言っていいだろう。まず、冒頭でセルバンテスが地下牢の法廷に告発されたのは彼が理想家であり、詩人であり、正直者だったからだ。そしてこの「理想家」という評価、もちろんアロンソ・キハーナ、あるいはドン・キホーテにも当てはまる。彼はまさしく夢に生きている。彼にとって風車は巨人そのものであり、旅籠は広大な城そのものであり、非常識なアルドンザは麗しのドルシネア姫そのものなのだ。そして何よりも、アロンソ・キハーナはラ・マンチャドン・キホーテなのである。傍目から見れば病気、あるいは狂気そのものだが、しかしそんなことは関係がない。それこそが彼の理想だから。理想に、夢に生きることの何が悪いのだ?というメッセージ性こそが、この作品が時代を越えて語り継がれる理由なのだ。神父のセリフも、アルドンザになぜあんなおかしいやつと一緒にいるのかと聞かれたサンチョが『本当に好きだ』で歌った理由も、まさしくそのメッセージに他ならない。

「病気のままの方が、幸せなのかもしれん」

                神父

 

『おいら 旦那が好きなのさ』

                サンチョ

 そしてやはり、セルバンテスが「理想」を、そして「狂気」を語る言葉のなかで最も美しいのは次のセリフだろう。

「一体狂気とは何だ?現実のみを追って夢を持たぬのも狂気なのかもしれぬ。夢に溺れて現実を見ないのも狂気かもしれぬ。しかし一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に、ただ折り合いをつけてしまって、あるべき姿のために戦わないことだ」

                セルバンテス

 この作品を彩る要素のひとつに、音楽がある。ミッチ・リーによる音楽には時代的にも地域的にも違うフラメンコの要素を大胆に取り入れており、キャッチ―かつ情熱的だ。特に今回の演出ではオーケストラに参加するギターの数が3本と多く、その中のひとつは実際に舞台上でICCOUが演奏している。最後の最後、セルバンテスと従僕が連行されていくなかで囚人たちが歌う『見果てぬ夢』には、感動せずにはいられない。

 ここからは松本白鸚以外の演者にスポットを当てていきたいと思う。まずは従僕とサンチョを演じた駒田一。この作品のなかで狂気のドン・キホーテの味方をする数少ないひとりで、どこまでも重要な役柄のサンチョ。同時に、悲痛なこの物語のコメディリリーフを担う役柄で、「好きだから」という理由だけで最後までキハーナに寄り添うサンチョの姿には心打たれた。そしてアルドンザ役の瀬奈じゅん。非常識であばずれと称され、初めのうちはキホーテを頭がおかしいとはねつけるが、彼の純粋な心に動かされ、最後には寄り添うという、心の移り変わりを表現しなければならない難しい役どころ。しかし、彼女のパフォーマンスは見事だった。宝塚でトップスターを務めた経験から生まれたワイルドな魅力がアルドンザという役にぴったりハマっていたように感じる。そして印象に残っているのはキハーナの姪を演じた松原凜子。なんと言っても歌が素晴らしかった。どこまでも透明で伸びやかなその歌声は、この名作の中でも輝いていたように思う。その他にも牢名主役の上條恒彦、神父役の石鍋多加史、カラスコ博士役の宮川浩など、すべてのパフォーマンスが素晴らしかった。

 この作品を観ることが出来てよかったと、心からそう思う。松本白鸚という役者が舞台上に表現するもの、造形するもの、そのすべてに心が震えた。傑作である。機会があるなら、ぜひ劇場で観て欲しい。