感情の揺れ方

それでも笑っていたい

私たちは本当に不良品でないのか──「連続性」という視点──

 倫理学の話をしよう。大学で4年間哲学を学んだとはいえ、このブログでカルチャー以外の話をするつもりはなかった。だが、それでも書かずにはいられなかった。きっかけは、このツイートだ。

  このツイートは、2019年6月2日放送のフジテレビ『ワイドナショー』の中で松本人志川崎市の登戸付近で発生した襲撃事件の犯人に対して「(人間として)不良品」という発言をしたことに対して本人が釈明の意味を込めて投稿したものである。

 川崎市の犯人や、ノルウェーで69人を殺害した大量殺人犯を指して、松本人志は「不良品」だと言ったのだ。これは私の推測ではあるが…おそらく同じような考えを持った人は少なからず存在するだろう。殺害した人数に関係なく、殺人犯あるいは凶悪犯に対してそのような態度を取ることは珍しくない。「犯罪者が罪を犯すのは生まれ持った性質、能力による」という、ある種のフィルター。犯罪者と自分とは根本的に違う存在なのだと考えることは、一種の防衛反応ではないか。「私は今まで罪を犯さず、そしてこれからも犯さない」という祈り。

 ジョン・ロールズという哲学者がいる。主に倫理学や政治哲学の分野で大きな功績をあげ、「ポスト・ロールズ(ロールズ以後)」という言葉があるほどだ。彼以前と彼以降では倫理学の視座が大きく変化している。

 話を少しだけ元に戻す。犯罪者とそうでない人との間にある違いとは何かを考えたとき、浮かんでくるのは「生まれ持った性質・能力の差異」だろう。これは先ほども述べた通りだ。生まれ持った性質・能力。言い換えれば性格や才能…その差異。それはどうしようもなく存在する。これは誰もが認めるところだろう。どれだけ努力しても越えられない壁はある。では、その「不平等」をどう捉えるのか。ある程度仕方のないものだと思うのが、およそ一般の反応だと思う。しかしロールズは違う。ロールズは「能力の差異は偶然的なものであり。『不当な不平等』である」と断言する。そして、「これに所有の観念を適用することは不正であり非倫理的である。個人の素質、能力は『社会の共有財産』でなければならない」と続ける。すなわち、もし犯罪者が犯罪を犯す理由が「生まれ持った性質・能力の差異」なら、川崎の彼やノルウェーの彼が大量殺人犯になったのは「偶然」でしかない。そして、「自分が罪を犯していないのは自分に能力があるから」と考えるのは「不当」であり「非倫理的」なのである。たまたま彼は罪をおかし、たまたま私はそうではなかった。それ以上でも以下でもない。「犯罪者が罪を犯す理由」が「生来の性質、能力」ではない。それは生まれ育った環境、あるいは社会の歪みが偶然その人に降りかかった結果だ。「個人の素質、能力は『社会の共有財産』でなければならない」とは、このことを指していると解釈することもできる。加害者がなぜそんな事件を起こすに至ったのかを考えなければいけない。私が彼だったかもしれないし、彼が私だったかもしれない。

 このような観点から考えると、松本人志の「不良品」という指摘は全く倫理的ではない。そこには、「私は本当に不良品ではないのか」という自省が欠けているような気がしてならない。「私は絶対ああはならない」という、根拠のない自負。「個人の素質、能力」が『社会の共有財産』であるなら、あらゆる人と人との間には『連続性』が存在するということになる。『連続性』。つまり、ある人とある人…私とあなたは断絶された存在ではない。例えば、知的なものも含めて、器質的な損傷を抱えている人(陳腐な言い方をすれば障害のある人)と、いわゆる「健常者」との間にも『連続性』は存在する。「健常者」というのは、言うなれば「人生の一時的な状態」に過ぎないのである。たとえ今まで「そう」でなかったとしても、これから「そう」なる可能性は絶対に否定出来るものではない。松本人志が「不良品」と断じた彼らと松本人志本人の間にも『連続性』が確かに存在する。

 私は偶然犯罪者になっていないだけだ。もちろん彼らの行いは断罪されるべきだが、なぜ彼が「そう」なってしまったのか、なぜ自分が「そう」ではないのか、考えなければいけないことは多くある。

 私たちは、本当に不良品ではないのだろうか。

 

 

正義論

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