感情の揺れ方

それでも笑っていたい

曜変天目と信仰

 花冷えのする4月の頭に、ど田舎の山中にぽつりとたたずむ美術館へ国宝を見に行きました。今年の滋賀県は4月といってもまだまだ寒く、桜も例年より開花が遅れています。今回足を運んだMIHO MUSEUMがある信楽は県内でもかなり寒い&標高の高い山中なので博物館周辺は5℃もなかったような気がします。

 

 さて、今回の目的である曜変天目とはなにか。ざっくり言うとすっごく綺麗なお茶碗です。南宋の限られた時代にだけ制作され、完全な状態で現存するものはわずかに4点、そのすべてが日本にあるという少し変わった謂れをもつお茶碗で、そのうち3つが国宝に、1つは重要文化財に指定されています。3年くらい前に「なんでも鑑定団」で話題になったので、それで聞いたことがあるという人も多いのではないでしょうか。で、今回はその3つの国宝がそれぞれ東京・奈良・滋賀で同時に公開されるということでMIHO MUSEUMに、という具合です。

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博物館からの景色。山。

 だいたい10時半には到着。平日だしそんなに混んでないだろうなと思っていたら結構な人が。バスツアーで来ている外国の方が半分以上という感じ。清潔だしバリアフリーだしで観光には良いんだろうなぁ。まず駐車場に併設されたバスの発着所で入場券を買い、レセプション棟へ。そこから美術館棟へは電気自動車が走っているんですが、天気も良いし桜の季節なので歩くことに。美術館までのアプローチには桜や他の花も咲いていて綺麗でしたが、いかんせんまだ気温が上がっていないので良くて三分咲きくらいでした。

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レセプション棟からアプローチへの景色。

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まだ盛りではない

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途中にあるトンネル

 美術館棟に続く橋へ繋がるおしゃれトンネル。材質と壁の照明が合わさってSFっぽい。トンネルの中にも一定間隔でスタッフが静と立っていて、周囲に気を配っていました。電気自動車が通る関係かな。トンネルを抜けると美術館が見えてきます。

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トンネルを抜けての振り返り。よくガイドブックにも載っている

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美術館

 

 MIHO MUSEUMは建物のほとんどが地下にあるのが特徴で、外観からその全貌は把握できない。これは環境と景観への配慮らしい。建物に入るとエントランスにいきなりこの看板が出ていたので、特に迷うことなく目的の曜変天目がある北館へ。

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看板

 さっきも言ったように、平日の昼前にも関わらず結構な人がいて、半分くらいは外国の方。今回の展示はただ曜変天目がぽつんと展示されているわけではありません。

 

京都紫野の禅刹・大徳寺塔頭である龍光院は、武将の黒田長政が父・黒田官兵衛の菩提を弔うため、江月宗玩和尚(1574〜1643)を開祖として慶長十一年(1606)に建立されました。大坂堺の豪商で茶人でもある天王寺屋・津田宗及の次男として生まれた江月は、高い教養と優れた禅風で知られ、当時の龍光院は、高松宮好仁親王小堀遠州松花堂昭乗ら一流の文化人が集う寛永文化の発信地でした。

また天王寺屋伝来の名宝は、江月によって大坂夏の陣の難をくぐり抜け、現在その多くが龍光院に伝えられています。

このたび龍光院の全面協力を得て、龍光院四百年の全容を一挙公開いたします。国宝の曜変天目茶碗や密庵墨蹟、柿栗図(伝牧谿筆)、油滴天目などの重要文化財をはじめとする、天王寺屋伝来の名宝、寛永文化の美を伝える江月所用の品や江月に帰依した人々ゆかりの文物、歴代寺伝の什物を展覧するとともに、江月以来脈々と受け継がれ、今に生きる禅の法統、龍光院の現在も紹介いたします。

 

  自分で書くよりもこっちの方がいいかなと思っての全引用です。こういうことです。

 さて、北館に入ってみると焼き物や掛け軸などが様々展示されていました。全体的に照明は弱めに設定されていて、落ち着いた雰囲気。お静かに、と書かれた手持ち看板を持ったスタッフの方が多めに配置されていて、騒がしくなると看板につけられた鈴を鳴らすというシステムが印象的でした。注意をするときも声を出さない。あと、「お静かに」の下に英語で「Be quiet!」と書かれていて、(語気が強めだな…)と思いました。美しい螺鈿などを見ながら進んでいると、結構前半に目的の曜変天目が。やはり目玉だからなのかスペースが特別に用意されている様子で、独立した大きなガラスケースに展示されていました。曜変天目の特徴は「曜変」という名前の通り、瑠璃色の光彩が浮かぶ椀の内側に光を当てるとその光を鮮やかに、七色に反射するというところにあります。その特徴を生かすためなのか照明はごくごくわずかなほどに絞られ、椀の真上から光が当てられているだけ。静々と近づいて茶碗を見てみると、柔らかい光を反射する深い瑠璃色は見るも鮮やかに輝いていて、満点の星々を湛える夜空のように美しいばかりでした。茶碗の内側だけでなく、光の当たっていない外側は対照的に重厚な輝きを見せていて、感動させられます。椀の内側が見やすいように少し高めの台が用意されていたのが非常にありがたかった。「すごい」「これはすごいね」という言葉が周囲から聞こえ、(確かにすごいとしか言えないな)と思いました。これが800年近く前の焼き物なのか、という。なぜ南宋の限られた一時期にしか製造されていないのか?なぜ日本にだけ現存し、中国には完全な形で残っていないのか?などの様々な謎があるこの曜変天目ですが、なんというか実物を見ると「こんだけ綺麗だといわくつきのものにもなるよなぁ」という気持ちになります。

 国宝の曜変天目を見たあとはぼちぼちと展示物を眺めて、一周するのにだいたい1時間くらいだったかな。せっかくここまで来たので常設展示も見ておこうと思い北館から南館へ。ギリシアやローマ、エジプトに中近東など幅広い地域、年代のコレクションが展示されているのでしっかり楽しめます。みんな曜変天目を見に来ているのでこっちは空いていました。サファヴィー朝メダリオン動物文絨毯は一見の価値あり。あとはリュトンも綺麗だったし、カバや犬などをかたどった装飾品なんかも可愛くてよかったです。そして南館には国宝ではなく重要文化財に指定されている方の曜変天目(キャプションでは耀変天目)が展示されています。確かに国宝の曜変天目と比べれば妖しい輝きは弱いと言えますが、それでも十分な美しさがありました。

 あっさり目に全体を回って、だいたい2時間くらい。観光には良いスポットだと思います。レセプション棟へは電気自動車を使って帰りました。10人乗りの2列目に座って景色なんかに目をやっていると、後ろの話し声が耳に入ってくる。

「静かでよかった」

「やっぱり宗教の人はバタバタしてなくていい」

「本当だね」

  そもそもこのMIHO MUSEUMはどういう場所なのか。ざっくり言えば、新興宗教の開祖が建てた私立美術館である。神慈秀明会という宗教団体の開祖である小山美秀子(みほこ)のコレクションを収蔵しているのがこのMIHO MUSEUMだ。

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遠くに見えるのが礼拝堂とベルタワー。

 それにしても遠景の写真で申し訳ないのだが、左にあるのがベルタワー(カリヨン塔とも)で右にあるのが礼拝堂である。この2つの建物は秀逸な建築物としても有名なのだが、原則的に信者以外は立ち入ることが出来ず、一般公開はされていない。神慈秀明会の本部がここ滋賀県甲賀市信楽の山中にあり、博物館は30万坪にも及ぶ敷地に隣接する場所に建てられている。実際に訪れたことのある人なら分かると思うが、この博物館はくねくねと荒れた坂道を登って行った先の、本当に山の中にある。それにしたってなんでこんなところにこの規模の博物館が?という疑問に対する答えは、こういうことだ。同じく滋賀県草津市には神慈秀明会の教祖である岡田茂吉の研究施設がある。琵琶湖のほとりを車で走っていると唐突に現れる巨大建築がそれだ。なんというか、滋賀県には土地が余っているのである。県面積の1/6が琵琶湖で後はほとんど山、可住地面積で言えば大阪より小さいのだが、森を切り開けば巨大施設だって建てられる。こう、めちゃくちゃな土地柄と言っていいかもしれない。あくまで県民の目線だが。

 話を戻そう。新興宗教というか、宗教一般に対するイメージというのは、こと日本においてはあまり良いものとは言えないだろう。自分のことを無宗教だと思っている日本人は多いような気がするし、9.11以来イスラームと戦争やテロリズムは切っても切れない。あまつさえインターネットでは宗教そのものを悪と断じたり、「弱い人間が宗教に頼る」「宗教の信者は無知蒙昧」とする見方が蔓延している。

 神とは何か?信仰とは何か?宗教とは何か?これらのフェイタルな話題を、インターネットで論じるつもりはない。およそ人文系の、いや、文理問わず「遥か高みへ向かう」学問を少しでも学んだことがある人なら、神や信仰といった「聖なるもの」を論じることがどれだけデリケートで、細心の注意を払って進められるべきかは知っているだろう。議論における「場」の問題というのは、大きい。「聖なるもの」への神秘体験に関する「語り」は、その体験をしたことがない者にとって有意義でない。

『われわれはここで、ある強い情動体験、しかもできる限り純粋に宗教的な情動体験の要因を記憶によみがえらせてみる必要がある。

それができない者、あるいはそのような機会をまったくもたない者は、本書をこれ以上読まないようお勧めしたい。というのは、思春期のときめく気持ちや消化不良の不快感、あるいは社会意識に由来する感情等々はともかく、特殊固有の宗教的感情を思い起こすことができない者には、宗教研究は困難だからである。』

                オットー『聖なるもの』より

  このように、「聖なるもの」を知っている者と知らない者の間にある隔絶は大きい。より具体的に言えば「聖なるもの」というよりも、それを体験したときの「あの感情」である。これらに関しては私がここであれこれと文章を連ねるよりもオットーの『聖なるもの』を読んでもらった方が良い。

 果たして信仰とは何であろうか。そもそも人が「神」と出会うのはなぜか。端的に言って「神」や「神話」が無知の産物だと、私は思わない。むしろそれは一線級の知性を持ってして初めて出会うものだろう。哲学や宗教学に限ったことではない。むしろ物理学や生物学、数学を含めた、それらの洗練された思惟が「神」を要請するのだと私は感じているが、詳細は省く。何度も言うように、ここはインターネットだから。

 そして、「信仰」とは有害なのだろうか。もちろん過度な勧誘などを取り上げればそうではあるが、そういう表面的な話ではない。「信仰」に由来する生活や、その人の「聖なるもの」に対する態度は有害なのか?例えばメッカへの祈り、例えばクリスマスの礼拝、例えば初詣の喧噪。そして、燃え盛るノートルダム大聖堂を前にした無力な民衆が歌う「アヴェマリア」。これらは糾弾されるべきなのか?信仰とはなんだ?「信じるものがある生活」というのは、尊いものではないか?もちろん信仰をする者の気持ちは、信仰しない者には十分には分かりえない。しかし私たちは自らの無知に敏感でなければならない。

 MIHO MUSEUMに行っただけでは、そこが新興宗教の関連施設であることには気づかないだろう。しかし、これは想像だが、「新興宗教が建てた美術館」というだけで難色を示す人もいるのだろうなと思うと、何とも言えない気分になってしまう。

 それはそれとして、曜変天目は本当に一見の価値ありなので興味がある人はぜひ見に行って欲しい。今回の特別展示は「『曜変天目』三椀同時期公開」という企画の一環で、残りの2椀はそれぞれ東京と奈良の博物館で展示されている。どうせなら三椀全部見たいなと思うのだが、奈良はともかく東京…。何かのタイミングが合えばなぁ。

www.miho.or.jp

 オットーの『聖なるもの』は、少しでも宗教学に興味がある人は絶対に読んだ方がいい文献の一つです。

   そして、ホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法』も個人的におすすめ。内容というか、思考の体型が。構造とは転倒しうるものなのです。

 

聖なるもの (岩波文庫)

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 啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

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