感情の揺れ方

それでも笑っていたい

劇評:『笑の大学』 脚本三谷幸喜 ※軽いネタバレあり

 大学で取っている講義の一環で三谷幸喜が脚本の『笑いの大学』を鑑賞しました。映画版やら舞台版やらあるらしいんですが、僕が観たのは舞台版です。とても良い作品でした。劇評を書いてみたのでよろしければ読んでみてください。

 

 

 面白い。本当に面白い作品だと思う。この作品の面白さの根底にあるのは、ある一つの世界がだんだんにその範囲を拡張していく、その過程にあるのではないだろうか。

 「世界」というのは基本的にある人物を中心にして広がる、交友関係や生活地域を円で表したようなものだと考えて欲しい。『笑の大学』における世界は他の作品に比べると極端に狭い。特に物語の導入部分においてその狭さは特筆すべきものがある。この演劇は完全な二人芝居で進められ、場面も取調室のみ。そこで劇団『笑の大学』座付作家の椿が検閲官である向坂の要求を聞きながら台本を直していく、というのが物語の筋である。個人的に、物語の有する「世界」というものは、登場人物各々が持つ「世界」の重なる部分であると思っている。実際に舞台へ登場する人物が二人しかおらず、また彼らが出会う場所は取調室だけなのであるから、当然『笑いの大学』における「世界」は狭い。これがこの作品の面白さにおいて非常に重要な部分である。

 例えばアクションのような作品においては、登場人物の「世界」の外に広がる世界(これは私の言う世界ではなくて世界そのもの)や、そこに存在する人々との邂逅や戦闘を通して彼らの「世界」が拡張していく、その過程に面白さが付随している。「世界の拡張」は面白さを生み出す。

 ただ、ここで重要なのは『笑の大学』が私たちに与えてくれる面白さというのは「funny」なものであって「interesting」なものではないということである。要するに『笑の大学』における「世界の拡張」が何故観た者を笑顔にするのか、ということだ。私が思うにそれは、この作品の世界が私たちの予想と大方一致した方向に拡張されていくからである。それはどういうことかというと、例えば検閲官向坂の人柄である。「私は生まれてこのかた一度も笑ったことがない」と自称するいかにもな堅物だが、検閲初日に椿の持ってきた今川焼を賄賂と疑いながらも持ち帰る。かと思えば別の日には家に飛び込んできたカラスの話をする。今まで見えていなかった向坂の「世界」が見えてくる。観客は「こいつはきっと終盤には...」と思わってしまう。そして検閲が台本直しへと展開していくと、その予想に違わず向坂の人物像が変化する。この「きっとこうだろう」と思ったことが実際に起こることによる笑いは、言うなれば赤ん坊が「いないいないばぁ」で笑うのとそれほど違わないのではないか。そういうような、私たちの奥底にある笑い。それが「世界の拡張」におかしさを加えている。

 しかし、物語の終盤に私たちの「きっとこうだろう」は裏切られる。それまで触れられていなかった椿の劇団における人間関係や笑いへの意志が明らかになる。椿の「世界」の広がりは、最終的に戦争という抗い難い大きな力へと行き着く。

 色々なものを学ばせてくれる作品だった。まさに『笑の大学』である。