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現代における「神話」と「啓蒙」──『啓蒙の弁証法』より

 はじめに

 「神話」。ギリシア神話あるいは北欧神話、ゼウスやオーディンという言葉から想像されるのはなんだろう。現代において、こと現代日本において神話は娯楽として消費されている。マンガ、ゲーム、アニメ…。例えば森鷗外が「今の教育を受けて、神話と歴史とをひとつにして考えることは出来ない」と言ったように、神話とはもはやフィクションであり、フィクションであるからこそ娯楽として人々はそれを楽しんでいる。すなわち神話がかつて持っていたある種の真実性、ないし社会的価値や規範などは一掃されたと言っていいだろう。つまり「神話」は解体されたのだ。神話の持つ非合理的を対象にした研究は古代ギリシアの頃から盛んに行われており、そこからいわゆる哲学が発生したと言われている。神話の解体は、遥か昔から連綿と続いてきた。人々は自らを「啓蒙」し、あらゆるものを発展させてきたのである。解体された神話が語る様々な寓話を、フェイタル*1に信じる人は今やほとんど存在しない。地球は丸く、生物は姿形を変え生き残ってきたのだ。原始キリスト教こそ各地に点在した神話の解体を担った集団なのだが、今は割愛する。しかし、この現代において、「啓蒙」はまさに新たな「神話」を生み出している。「神話の解体」であったはずの「啓蒙」が今再び「神話」を構築しているとは、一体どういうことなのだろう。神話と啓蒙とが共犯関係にあると主張したのはホルクハイマーとアドルノであるが、彼らの主著『啓蒙の弁証法』を読み解くことで神話と啓蒙の関係を明確にしたい。

 

第1章 理性による啓蒙

 啓蒙は、神話や呪術といった非合理的な暗闇を人間理性の光によって打ち消しその歩みをさらに向こう側へと推し進める。このエントリーにおける理性とはすなわち、物事を批判的*2に分析する力のことを指す。理性の話もまた長くなってしまうので、現代において一般的な意味だと考えて欲しい。カント*3をして「啓蒙の時代」と言わしめた18世紀から現代に至るまで理性の光はほとんど世界中を照らし尽くし、啓蒙の目的はほぼ達成されたように思われる。ありとある呪術、そして神話は、一部の地域を除いて知識によって解体された。いや、解体されてしまったという表現がより適切かもしれない。「知識は力なり」との言葉を残したと言われているベーコン*4は、迷信を打倒する理性に従って自然を観察していけば、人間が自然に従うのではなく、ある意味でそれを従えることになるだろうと考えてもいた。この予言は学問が啓蒙の時代を越えて、今に至るまで歩んできた道を見事に言い当てている。

 カントによれば啓蒙とは「人間が自分の未成年状態から抜けでること」(1)である。ここで言われている「未成年状態」とは、「他人からの指導がなくては自らの有する理性を使用することができない状態」である。現在私たちは理性の光によって未成年状態の微睡みから目覚め、それにより学問と科学は際限のない発展を見せている。あらゆる自然は実験あるいは観察を経て知識へと変貌した。すなわち、あらゆるものは対象化され、すべてが客体となった。理性の光が照らした啓蒙の道程は人間を自然から厳密に区別したと言ってよい。自然は、キリスト教的な意味の「神的なもの」ではなくなった。人間は孤独になったのである。神話は解体され、かつて恐れるべき自然と人間とを繋いでいた幻想は振り払われた。しかし、啓蒙は今再び神話という形をとって世界中を覆っている。解体された神話の建材で別の神話を作り上げた私たちは、その中でまた未成年状態の微睡みに精神を預けているのではないだろうか。啓蒙が神話へと退化していく過程を述べるため、次の章では「啓蒙の時代」である18世紀の大革命、フランス革命の精神とその結末とを考察する。

   

第2章 啓蒙による革命とその黄昏

 理性の光が照らしだしたのは、先の章で述べたような、人間以外の自然とそれを覆う闇だけではなかった。自然への服従は、それが人間の範疇を逸したものであると思われていたからに他ならない。しかし人間の理性はそれを超克し、言わば家父長的な支配と被支配の関係に置き換えた。同じことが、人間と人間との関係においても為されたのである。その代表的な例が18世紀の末に起こった、狂瀾怒濤のフランス革命である。この革命では理性による啓蒙が人々を果たして目覚めさせ、まさに当時の人らを成年状態へと導いた。しかし同時にこの革命の黄昏は、啓蒙が不可避的に行き着く問題、すなわち神話への退化を見せるものでもあった。
 まずフランス革命は、アンシャン・レジームと呼ばれる旧制度、すなわち第三身*5の農民がすべての税を負担するという非合理的なシステムへの不満が爆発したことで夜明けを迎える。第三身分が中心になって国民議会が結成された時、エマニエル・シェイエス*6は小冊子『第三身分とは何か』において第三身分を次のように表現している。すなわち、「第三身分とはすべてである」(2)と。この言明こそ、啓蒙に他ならない。この言明はまさに、ギリシアの神話におけるオイディプスの「それは人間だ」*7という、ホルクハイマーとアドルノが「啓蒙のきまり文句として無差別に繰り返される」(3)と評するその台詞と質を同じくするものだろう。こうして革命は啓蒙の光によってその背中を押されたのである。
 革命の風はフランス全土へと吹き荒ぶ。各地で起こった暴動の後にかつての特権は廃止され、輝かしき人権宣言の発布が為されたのもこの時である。しかし啓蒙の栄華はそう長くは続かなかった。国外勢力の干渉により戦争が始まると社会不安は増大し始める。国王は宮殿を追われ、義勇兵と敵兵との戦いは激しさを増した。国歌『ラ・マルセイエーズ』の詞*8とは対照的に、祖国の畝は敵の血によってのみならず彼ら自身の血によっても潤わされることになった。ついに国王は処刑され、独裁政権による恐怖政治が幕を開ける。これは、理性の光によって照らされていた啓蒙の道が、神話へと至った瞬間に他ならない。支配と被支配の関係を理性によって超克するものであったはずの啓蒙が、再び非合理的な支配を原理とする神話へと立ち返ったのである。非合理的なアンシャン・レジームの支配を啓蒙によって打開し民主主義的な立憲君主制を樹立したはずが、その革命の旗手たちが支配的な独裁政治を行うことになったのである。このように、啓蒙はすべてを飲み込んでしまう。
 恐怖政治はすぐにその反動を受け、独裁者たちは断頭台へとその足を進めることになった。神話の担い手たちが消え、啓蒙はその歩みを取り戻したかに見えた。しかし啓蒙が神話を内包している以上神話もまた啓蒙であるから、啓蒙の歩みはやはり神話によって妨げられる。言うまでもなく、その神話とはナポレオンである。その神話は啓蒙の光の前に立ち、自らの影によって民衆をその光から遠ざけた。家父長的な支配制度の頂点へその身を挿げたのである。啓蒙たる革命は、神話たるナポレオンによって相続された。啓蒙はやはり神話へと退化していったのである。
 血塗られた革命は、その光でもって民衆を一度は確かに目覚めさせたが、強大な神話の登場により光は遮られ、人々はふたたび神話の微睡の中へその身を委ねることになったのである。

 

第3章 啓蒙と神話の構造

 このように、啓蒙と神話とは言わば共犯関係にある。啓蒙の行き着く先は神話であり、神話の行き着く先は啓蒙である。では、その構造はどのようなものになっているのか。この章では啓蒙と神話とがいかに関係しあうのか、そして人々は神話と啓蒙の間をどのように所在無くさまようことになるのかについての考察を行う。
 まず、我々人間は眠っている。心地よい未成年状態の微睡に抱かれている。しかし理性による啓蒙の光は突如として我々を覚醒させる。成年としての私たちが光に照らされ、啓蒙がその行く先を示す。この時点では、光源である啓蒙は未だ神話的性格を持ち合わせていない。光が示す道を踏破する中で人間は自然を対象化し、支配されるものから脱却していくが、この時すでに神話がその顔を見せ始めている。いや、神話がその瞳に映りだしていると言った方がより適切である。啓蒙の光はすべてを照らし、また人も世界のすべてを把持しようとする。そのようにして啓蒙の旗を片手にした我々は、ついには世界の果て、光の届く限界まで歩みを進めることになる。そこに待っているのは何か。神話である。支配原理を破壊してきたように考えていた自分自身が、その実世界を照らしていく過程で自らを家父長制度の頂点に鎮座させようとしていたことに気が付く。世界の果てに待っているのはそのような自分の似姿に他ならない。その巨大な神話を前にして、道を背中から照らしていた啓蒙の光はもはや届かず、暗闇の中で我々はふたたび眠りにつく。
 いわば人間は波間をたゆたう巨大な砂時計の中を行きかう砂粒のようなものなのかもしれない。空間の両端にはそれぞれ啓蒙と神話とが顔をそろえて我々の到着を待っている。啓蒙の光の前に立つ神話は近づけば近づくほどその影を巨大なものに変え、光を奪い、眠りへと誘う。神話は既にあるものだが、神話の前に横たわる民衆がその影をより大きくしていくのだろう。人々は光を求めて、前門に座する虎と後門に座する狼との間を行き来し、その相貌を眺めては未成年状態へと退化していく。

 

おわりに

 現代において、いや連綿と紡がれてきた人間の歴史において、神話は常に啓蒙の名のもとに解体され、啓蒙は常に神話へと沈んできた。それが悪であるとか、あるいは善であるとか、そういうことは問題ではない。では何が問題なのか。今まさに自分は神話の中で眠っているのか、それとも啓蒙の光に貫かれているのかをいつも考えなければならないということが問題なのだ。より厳密に言えば、神話の中で眠っている。啓蒙の光に貫かれていると「自分が思っている」のはどのような状況なのかを念頭に置かなければならないのだ。神話とは何か?啓蒙とは何か?私は何を神話と、そして啓蒙だと思うのか?なぜそう思うのか?私たちは常に、自らの無知に対して敏感でなければならない。

 

(1)I.カント『啓蒙とは何か』篠田英雄訳、岩波書店、1974年、p.7.

(2)シィエス『第三身分とは何か』稻本洋之助、伊藤洋一訳、岩波書店、1950年、p.5.

(3)ホルクハイマー、アドルノ啓蒙の弁証法』徳永恂訳、岩波書店、2007年、p.29.

 

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永遠平和のために (岩波文庫)

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第三身分とは何か (岩波文庫)

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啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

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*1:致命的に、運命的に

*2:カント的な意味で

*3:ドイツの哲学者。近代哲学を代表する最も重要な哲学者の一人

*4:イギリスの哲学者

*5:第一身分の僧侶、第二身分の貴族に次ぐ、商人や農民などの総称

*6:革命期の政治家

*7:スフィンクスオイディプスに出した「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足」というなぞなぞに対する答え

*8:武器を取れ 市民らよ 隊列を組め 進もう 進もう 汚れた血が我らの畑の畝を満たすまで!