感情の揺れ方

それでも笑っていたい

2015年宙組公演『メランコリック・ジゴロ─危ない相続人─』~朝夏まなと×真風涼帆の上手さ~

 スターシステムや男役娘役など、「宝塚歌劇」には数多くの特徴がある。その中でも大きな特徴になるのが、「オリジナル作品の多さ」だろう。およそ400人の組子(劇団員)、30人近い座付きの演出家を抱えるこの巨大劇団は、海外ミュージカルの日本初演や原作物の舞台化にも積極的で『エリザベート』や『THE SCARLET PIMPERNEL』、近年では『るろうに剣心』、『ポーの一族』など様々な名作を生み出している。しかし「宝塚歌劇」の根幹を支えているのは宝塚の演出家が宝塚のために書き下ろす「オリジナル作品」ではないだろうか。「誰が演じるのか」を念頭に置いた作品作りは、通年で公演を打つ宝塚歌劇団にしかない魅力だ。

 数多くあるオリジナルの中で私の好きな作品のひとつが、正塚晴彦作・演出の『メランコリック・ジゴロ』である。この作品は1993年に花組で初演され、2019年末の今現在まで4回にわたって再演、通算で5回の上演を誇る人気作品になっている。映像ではあるが、私が観たのは2010年の花組、2015年の宙組、2018年の花組公演で、このエントリーでは2015年の宙組公演の感想を残したい。まず主なキャストは以下の通りだ。

 ダニエル:  朝夏 まなと
 フェリシア: 実咲 凜音
 スタン :  真風 涼帆
 フォンダリ :寿 つかさ
 ベルチェ : 澄輝 さやと
 レジーナ : 綾瀬 あきな
 ノルベール :凛城 きら
 バロット : 愛月 ひかる
 マチウ :  星吹 彩翔
 セラノ :  風馬 翔
 ティーナ:  彩花 まり
 ルシル :  伶美 うらら
 アネット : 瀬戸花 まり
 ロジェ :  瑠風 輝

   カティア: 瀬音 リサ

 この『メランコリック・ジゴロ』という作品は、宝塚のオリジナル作品の中ではかなり特徴的で、かつとても難しい作品ではないだろうか。宝塚の作品はなんというか、基本的には分かりやすい構造になっている。喜劇は喜劇だし、悲劇は悲劇だ。ずっと願っていた夢が叶って幸せになるか、叶わずに不幸せになるか、乱暴な言い方をすればだが、そういう作品が多い。それで成立する、何より成立させる力が宝塚のスターたちにはあるからだ。しかしこの『メランコリック・ジゴロ』は違う。ざっくりした言い方にはなるが、「何も思い通りにはいかないが、しかし最後にはみなが幸せを掴む」物語なのだ。

 1920年のヨーロッパを舞台に、主役のダニエルとその悪友スタンはジゴロとして生きている。ジゴロ、今風に言えば要するに「ヒモ」なのだが、ジゴロという言い方が成立するのは宝塚の、いや朝夏まなと・真風涼帆が持つノーブルな雰囲気のなせる技だろう。物語はどこかの駅で朝夏演じるダニエルがパトロンの一人であるアネットと別れる場面から始まる。外国へ行くんだと言うダニエルにすがりつくアネットと、彼女を引き剥がす真風演じるスタン。アネットを振り切って列車に乗ったダニエルは、少ししてから何食わぬ顔でスタンのもとに戻ってくる。外国に行くというのは、アネットとの関係を解消するための嘘だったのだ。そして二人は、夢を再確認する。

ダニエル、スタン「誰もが羨む、甘い生活

 ここまでを見れば、ただ陽気で他力本願なジゴロたちによる明るいコメディなのかなと思うのだが、この作品の主題歌である「幸せの夢」が始まると雰囲気が変わってくる。この「幸せの夢」、曲調はとても明るく幸せな雰囲気なのだが、歌詞をよく聞いてみると違った印象が見えてくる。

 「失うものなど何にもないからすべてをかけよう 一度きりの人生

  切ない話は聞かせないでくれ 涙の向こうに時が過ぎてしまう

  走る走る今日も 何が幸せだろう 届け届けいつか俺の世界へ

  頼んで生まれたわけじゃないけれど 嘆くも笑うも一度きりの人生

  生きて生きて今日も何が幸せだろう きっときっと掴む俺の世界を」

            ダニエル、スタン

 この曲を、ダニエルとスタンは底抜けに明るく歌う。明るく、コメディチックに歌いきるのだ。「失うものなど何もないから」、「頼んで生まれたわけじゃないけれど」、そして「何が幸せだろう」という、このあまりにも重い言葉を、朝夏と真風は風に舞う羽毛かのごとく軽やかに歌ってしまう。両名の実力で持って、このプロローグにおいて「喜劇」と「悲劇」は混ざり合う。巧妙に。ダニエルとスタンの歌パートが終わると、宝塚らしく登場人物が集合してそれぞれに主題歌を歌い継いでいく場面へと移る。まず歌いだすのが、いかにも悪役然としたフォンダリ、バロット、ルシルというのが良い。ここもまた巧妙で、観客としては「おっ、絶対悪い人たちだ」という明らかな分かりやすさに誘導されてしまう。

「人の世の幸せに背中向けて生きる 男の哀愁

 滲み出る優しさに 別れ告げて通る人生の裏道

 孤独に耐え誇り高く 私たちはプロフェッショナル」

       フォンダリ、バロット、ルシル

 そして次に登場するのが、実咲演じるヒロインのフェリシア。この実咲もやはり表現力が卓越していて、フェリシアというキャラクターのすべてをこの短い場面で観客に示してくれる。『メランコリック・ジゴロ』という作品の魅力のひとつである「わかりやすさ」を作り上げていると言ってもいい。

「もしも誰かと話していられたなら 

 知らず知らずに涙も忘れるでしょう

 心の扉を開き 私はひとりじゃなかったと

 いろんなことが楽しくなるわ」

        フェリシア

 ここから主題歌の「幸せの夢」はクライマックスにさしかかる。まずは出演者が勢ぞろいして、全員によるコーラスだ。

「幸せはどこにあるの いつの日か出会えるの

 遠すぎちゃ届かないし 近すぎちゃ見えないし

 陽だまりのぬくもりにも 柔らかな笑顔にも

 その影は見えるけれど なぜすぐに消えるの」          

 もう、めちゃくちゃ重い。文字だけで読むとすこしウッとなるくらいには重い。なのに、明るいのだ。そう遠くない将来の破滅すら感じさせるようなこの歌詞を、高らかに朗らかに歌い上げて喜劇のように見せることが出来るのは、やはり朝夏、真風、実咲と、彼らに引っ張られたチーム全員の実力あってのものだろう。最後にはダニエルのソロが入る。「ダニエルのテーマ」だ。

「この道をたどれば 遠いあの空に続く 

 古い小さな傷痛むように 懐かしさがこみあげてくる

 今でも思い出す夕焼けに染まった村

 振り返った丘から小さな声 別れを告げてきた

 この街に生きて昨日も今日も明日も見上げる星くず 憧れは限りなく

 まだ見ぬ幸せ 涙も夢も恋も 遠い窓辺に輝くともしびゆれて踊る踊る

 愛し合う人がいればそれだけですばらしい」
            ダニエル

 プロローグはここで終わるが、一連の歌で示されているのは、「どの人物も何かを抱えていること」そして「誰もが孤独であること」だ。ダニエルはきっと故郷を離れて都会で一人孤独に暮らし、悪役であるフォンダリたちもまた世間の幸せからは距離を置いて孤独に耐え、フェリシアも孤独に涙を流している。「幸せはどこにあるのか」という問いかけ、そして「愛し合う人がいればそれだけで素晴らしい」というひとつの答えを同時に示し、物語は幕を開けるのだ。この、作品全体の構造を最初にすべて、それもこんなにも巧妙にかつ滑らかに示してしまう演出の上手さと、その演出を形にする出演者のパフォーマンス。すごいと言う他ない。

 プロローグが終わると、場面はパーティでダニエルと彼のパトロンが話しているところに移る。レジーナは長らくダニエルのパトロンで、大学生であるダニエル(ずっと行っていないようだが)の学費を払い自分のアパートに住まわせていた。そんなレジーナはなんと新たなジゴロを見つけ、ダニエルにアパートから出ていくように告げる。もちろんダニエルは抗議するが、取り付く島もない。甘い生活を夢見ていたはずのダニエルは、一夜にして文無しの宿無しになってしまう。レジーナに悪態をつきながら、ダニエルは歌いだす。「ダニエルのテーマ」のリプライズだが、すこし歌詞が変わってくる。

「この道をたどれば遠いあの空に続く 古い小さな傷 痛むように 

 懐かしさがこみあげてくる 今でも思い出す夕焼けに染まった村

 降りむいた丘から小さな声 別れを告げてきた

 この街に生きて昨日も今日も明日も 見上げる星くず 憧れは限りなく

 まだ見ぬ幸せ 涙も夢も恋も 遠い窓辺に輝くともしび揺れて踊る踊る

 この街に暮らし出会いも嘘も愛も かりそめの命運 微笑みが滲んでる

 美しい世界 心も人も夜も 

 影を受かべてはてなく漂い 時がめぐるめぐる

 夢はいつも追いつけない明日の約束

 むなしいのは答えのない命の問いかけ」

          ダニエル 

 ダニエルの夢である「甘い生活」は、いつだって叶わないのだ。何も思い通りに行かない彼の生活は、ジゴロと言えども悲劇には変わりない。

 場面は移り、スタンと恋人のティーナ、弁護士のマチウがカフェバーのような店で何やら話し込んでいる。既婚者のマチウがティーナに言いより、そのことを知ったスタンがある計画の片棒を担ぐようせまっているのだ。そこにダニエルがやって来る。「うまい儲け話」、「完璧な計画」というスタンの口車に、ダニエルはまんまと乗ってしまう。それは、とある休眠口座の相続人と容姿から背格好までそっくりのダニエルが身分を偽ってその口座のお金を相続してしまうという、もう一から十まで完全に詐欺そのものなのだが、「甘い生活」のために計画は走り出す。走り出すのだが。案の定計画は失敗する。失敗と言っても、口座のお金を相続することには成功したのだが、甘い生活を実現するような金額ではなかったのである。カフェで一晩豪遊すればなくなってしまうような金額しかなったのだ。この計画を当てにして様々なものを買い漁っていたティーナがそれを返品するシーンは一見の価値がある。彩花まりと真風の好演が光る。やはりこの場面でも、登場人物の思惑は外れてしまう。何も思い通りにいかない。お金は入ってこないし、新しい服も買うことができない。その悲しみを紛らわすように、二人はカフェで酒を飲む。しかもその場にいる全員に奢るという大盤振る舞いだ。

「悲しい時も飲めば涙の味を薄めて」

 ダニエル、スタン、そしてティーナの悲劇は、しかし笑いを誘う。そして計画の失敗は、招かれざる客を連れてくる。しかも、何人も。まずは、フェリシア。彼女は、休眠口座の主ノルベール・サーダの娘で、新聞に載っていた休眠口座の記事を見て遠い街からやってきたのである。つまり、フェリシアにとってダニエルはずっと行方不明になっていた兄のアントアンその人なのだ。兄との再会を喜ぶフェリシアを尻目に、ダニエルとスタンはもうパニックそのもの。こんなはずじゃなかった、どうするんだと口論をする中でスタンは逃げようとするが、フェリシアの「もうひとりじゃないよね」というセリフはどこまでも重い。父が消え母が死に、そして兄までもが行方知れず。彼女はきっと、ずっと孤独に生きてきた。アントアンが帰ってきて、「いろんなことが楽しくなる」はずという期待に満ちている。このフェリシアの見せ方も、本当にうまい。そこにまた、招かれざる客人が来る。フォンダリたちだ。彼らもまた、ダニエルのことをアントアンだと思っている。そしてアントアンの父ノルベールがフォンダリに5億もの借金をしていたことを告げ、それを返すようダニエル(アントアン)に迫る。アントアンのふりを続けるしかないダニエルは口座に金が入っていなかったことを正直に伝えるが、フォンダリは信じない。バロットに連れていかれそうになるダニエルとスタンだったが、ダニエルの大盤振る舞いを聞きつけた浮浪者たちがカフェになだれ込み、ダニエルたちはそれに乗じて逃げることに成功する。兄との再会を喜ぶフェリシアと、それに話を合わせるしかないダニエル。どこまでもかみ合わない二人のやり取りは、悲しいようで笑いを誘う。

「もしも誰かと話していられたなら 知らず知らずに涙も忘れるでしょう

 心の扉を開き 私はひとりじゃなかったと 

 いろんなことが楽しくなるわ 

 人は孤独と誰かが言ってたけど だから凍えた指先あたためたい

 何もいわず風に揺れる木立のように

 変わらず生きていけたら それが幸せの夢」

             フェリシア

 ようやく孤独ではなくなったことを喜ぶフェリシア。そのフェリシアと別れ、ひとまずスタンとティーナの家に逃げ込んだダニエルたち。フェリシアに優しい嘘をつき続けるダニエルとは対照的に、スタンはダニエルを置いて街を出ようと荷造りをする。スタンの薄情さが垣間見える場面だが、ここで重要なやり取りがある。

ダニエル「お前、貴族の出だったよな」

スタン「うん」

 調子の良いスタンもまた、何かを抱えているのだ。ダニエルもフェリシアも、そしてスタンもまた何かを抱えながら幸せを掴むために生きている。なぜスタンが今のような生活をしているのかは描かれないが、この物語は、そういう物語なのである。なんとそこへ警察がやって来る。詐欺がバレたのかと思った二人は警戒をするが、警察の目的はフォンダリだった。話を聞いてみると、フォンダリはかつて列車強盗を働いた罪で警察に追われているという。フォンダリがダニエル(アントアン)を付け回していたのは、アントアンの父であるノルベールが列車強盗の分け前を持ち逃げしたからだったのだ。いよいよ命の危機を感じ始めた二人は街を出ようとする。

 この作品には、何気ないシーンにも色々な伏線が張られている。ダニエルとスタン、ティーナがフェリシアを連れて逃げようとする場面のあとに、浮浪者がホテルに泊まろうとして受付のカティアに断られる場面が入る。その浮浪者は完璧な計画の場面でダニエルに酒を奢ってもらった浮浪者だ。そしてそのホテルへすぐにフォンダリたちがやって来て、フォンダリとカティアがかつて恋人関係にあったことが示されるので浮浪者のことは印象に残らないのだが、ここはかなり重要な場面なのだ。浮浪者がフォンダリたちのアジトに来たことも、カティアとフォンダリの関係が示されることも。

 

 

 場面は移り、街を離れようとしたダニエルとフェリシアはフォンダリたちに捕まってしまう。スタンとティーナは逃げおおせたのだが。フォンダリが銀行に行き、実際に口座にあった金額を調べようとしていることを知ったダニエルはルシルを人質に取って脱出しようとするが、それも失敗する。しかしそこに救世主が現れる。スタン…ではなく、なんとあの浮浪者がダニエルとフェリシアを助けに来たのだ。戸惑う二人だったが、フォンダリが三人の前に立ちはだかる。フォンダリはその浮浪者に銃をつきつけ、「ノルベール」と呼んだのだ。ダニエルが良くしていた浮浪者は、アントアンの父ノルベールその人だったのである。ノルベールは語り始める。列車強盗のあと戦争が始まり当時の仲間はもう誰も残っていないこと、分け前を奪ったのは誰だったのか今はもう分からないこと、そして莫大な金額だった分け前が貨幣価値の暴落とインフレとでもはや紙くず同然でありダニエルが受け取った分ですべてであること…。嘆くフォンダリだったが、そこにスタンが警察を連れてくる。フォンダリたち、そしてノルベールも連行される中で、ダニエルがフェリシアに打ち明ける。自分がアントアンではないということを。それに続くように、ノルベールは娘のフェリシアにダニエルが信用に足る人間であることを言い残し、母の写真が入ったペンダントを渡してその場を去る。兄だと思っていた人間が全くの他人であり、再会出来た父もすぐに捕まってしまう。孤独に苦しむフェリシアにとって、これ以上の悲劇はない。ダニエルもノルベールもフォンダリも、そしてフェリシアも、誰も何も思い通りにいかないのだ。しかし、ノルベールがフェリシアに残したのは、母の写真だけではなかった。そこには貸金庫の鍵と、金庫の番号を書いたメモが残っていたのだ。

 場面は変わり、騒動から数日あるいは数週間後のカフェ。そこではまたスタンがマチウを相手に金儲けの計画を練っている。フェリシアを連れてきたダニエルにも話を持ち掛けるが、ダニエルは取り合わない。大きな荷物を持ったフェリシアはどこかよそよそしく、上の空だ。元居た街に戻るため駅へ向かうフェリシアと、それを見送るダニエル。出発時刻が迫る中、なにか核心を避けた会話を続ける二人。そこへレジーナが現れる。ダニエルを一度は捨てたものの、新しいジゴロは見込み違いだったためもう一度やり直さないかと問いかけるレジーナを見て、フェリシアは荷物も置いて列車に飛び乗ろうとする。その背中に「荷物!」と声をかけ引き留めるダニエルは、しかしカバンから手を離さない。フェリシアを見つめ、ダニエルが言う。

ダニエル「お前が好きだよ!俺はジゴロで、宿無しで文無しで、だけど」

 宝塚でも屈指の名セリフ、名シーン。朝夏まなとが言う「お前が好きだよ」の破壊力。そしてそれを聞いた実咲の美しい涙と抱擁。すべてが完璧と言っていいほどの名シーン。 

 ダニエルは結局ジゴロをやめ「甘い生活」を捨てたし、スタンも計画が失敗してお金は手に入らない。フェリシアに至っては再会した兄が偽物で本物の父は列車強盗の罪で捕まってしまい、孤独は解消されなかった。誰も何も思い通りに行かないのだ。なのに、それなのに、みなが幸せになる。ダニエルはフェリシアと、スタンはティーナと。まさに「愛し合う人がいれば素晴らしい」のだ。それはフォンダリだって同じである。フォンダリはカティアと、バロットはルシルと。特にバロットとルシルのバカップル感がこの作品に与えている影響は大きい。この二人が悪役であるおかげで、作風が重くなりすぎないのだから。

 喜劇と悲劇が、巧妙に、そして絶妙に混ざり合うこの作品を作り上げるのはとても難しいのではないだろうか。少しでもどちらかに偏ってしまえば、すべては破綻してしまう。喜劇一色では「幸せはどこにあるの」というテーマは意味をなさず、悲劇一色では「愛し合う人がいればそれだけで素晴らしい」というひとつの答えはあまりに陳腐になってしまう。この『メランコリック・ジゴロ』を完成させた、当時の宙組に心からの拍手を。

 そして蛇足ではあるものの、やはり真風涼帆には一度本公演でがっつりコメディをやって欲しい。トップスターとして。彼はその美貌に注目が行きがちではあるが、やはり一番の武器は演技力ではないかと思うのだ。星組時代の『オーシャンズ11』やこの『メランコリック・ジゴロ』で見せたパフォーマンスは素晴らしいものがある。『アナスタシア』の次に、どうかお願いしたい。