感情の揺れ方

それでも笑っていたい

狂気覗かす男役─表現者 明日海りお─

 さる2019年9月30日、ひとりのタカラジェンヌ宝塚大劇場を卒業した。花組トップスター、明日海りおである。彼は2003年『花の宝塚風土記/シニョール・ドン・ファン』で初舞台を踏み、月組に配属された。その後2008年のバウ・ワークショップ『ホフマン物語』でバウ初主演、同年の『ME AND MY GIRL』で新人公演初主演と、まさしく路線に乗った彼のタカラヅカ人生は抜擢に抜擢が続き、順風満帆と言えるものだった。新人公演は『夢の浮橋』、『エリザベート』、『ラストプレイ』と4連続で主演、バウ公演『二人の貴公子』では龍真咲とダブル主演、2011年には『アリスの恋人』で入団9年目にして東特初主演を果たしている。同年には『THE SCARLET PIMPERNEL』のショーヴランを役替わりで演じ、新たな一面を示している。彼の躍進はそれだけにとどまらない。2012年、当時の月組トップスター霧矢大夢が退団し、その羽根を龍真咲が引き継いだタイミングで、彼は2番手ではなく「準トップ」に就任したのだ。この「準トップ」は宝塚歌劇団の歴史上初の措置で、彼は龍真咲・愛希れいかのトップコンビ大劇場お披露目公演『ロミオとジュリエット』でなんとロミオとティボルトの2役を、続く翌年の『ベルサイユのばら』でもオスカルとアンドレの2役をトップスター龍真咲との役替わりで演じたのである。これはまさに異例だ。正式に2番手になるよりも前に準トップとして大劇場で主演を務めているのだから、常識では計れないスケールの男役と言っていいだろう。振り返れば、彼の経歴は「宝塚初」とか、そういった言葉によって彩られている。2013年には蘭寿とむ率いる花組に組替えし、『愛と革命の詩』、『ラスト・タイクーン』を経て2014年に花組トップスターに就任した。入団12年目でのトップスター就任はかなり早い部類になるが、プレお披露目公演『ベルサイユのばら─フェルゼンとマリーアントワネット編─』、大劇場お披露目公演『エリザベート』でようやく「トップスター明日海りお」が誕生したのだと感じたファンは少なくないだろう。それからの彼の活躍は目覚ましく、元星組トップスター柚希礼音が退団して以降は彼のことを「トップオブトップ」と呼ぶ人も増えたように思う。かく言う私もその一人で、なんというか「宝塚のトップスターといえば明日海りお」という風に考えていた。数多くの作品に主演する中で、トップスターとして円熟期を迎えた彼が2018年に行った舞浜アンフィシアターにおける花組公演『Delight Holiday』は同劇場初めての宝塚作品であり、2019年にはこれも劇団初となる横浜アリーナでのコンサート『恋するARENA』を成功させている。宝塚に新たな歴史を刻んだトップスター、それが明日海りおなのだ。

 では、明日海りおがここまでの輝かしい足跡を残すことが出来たのはなぜだろう。美貌?歌唱力?人柄?もちろんそのすべてが彼には備わっている。特に「フェアリー系」と称されるその麗しさは筆舌に尽くしがたい。研究科3年目や4年目時代にステージの後ろの方で踊っているだけなのになぜか明日海りおは輝いているように見えるし、なぜか視線を奪われる。「トップスターは光を当てられるのではなくて自分から光を出す」という言葉も、彼を見ていると「あぁ、そうかな」と納得してしまう。しかし個人的には、明日海りおというトップスターをトップスターたらしめているのは、「表現力」だと思う。それも会話や歌といった「声による演技」ではない、「立ち姿」とか「所作」、「ダンス」などの「声に頼らない演技」において彼の右に出る者はいない。明日海りおという役者は、ただ立っているだけで役のすべてを表現することが出来るのだ。やり直しのきかない舞台の上で、そしておよそ3か月におよぶ公演期間をシングルキャストで走り抜ける中で、彼の表現はどこまでも、どこまでも鈍ることがない。特に、「人間ではない役」を演じているときの明日海りおには、鬼気迫るものがある。『エリザベート』のトートで彼はまさしく「死」だった。「死そのもの」だった。エリザベートの死を望みながらも自分では手を下せず、さらに彼女のネガティブな死では満足することの出来ないトートの揺らぎ。「黄泉の帝王、トート閣下。またの名を、死」。これは個人的な考察になるが、トートは「死」であって、決して「死神」ではない。だからこそ彼は死んだ人間を迎えることして出来ないし、猫を殺したというルドルフの告白に悲痛な表情を見せるのだ。セリフの少ないトートという役柄を演じる明日海りおのパフォーマンスは見事なものだった。そして、明日海りおという表現者の力がひとつの頂に至った作品が、『ポーの一族』だと私は思う。萩尾望都の同名作品を原作にした初の舞台化を務めたのは、やはり明日海りおだった。小池修一郎をして、ポスター撮影で「そこにエドガーはいた。明日海りおだった」と言わしめる彼のパフォーマンスは見事だった。まず、ヴィジュアル面。なんというか、絵が動いているのだ。エドガーが、動いている。明日海りお、ついに二次元に食い込みだしたかぁ、という感覚。そしてなにより、緞帳が上がってからの表現力。プロローグ、舞台の中心からバラを持ってせりあがってくる明日海りお、いや、エドガーの美しさ。それも、こちらに寒気を覚えさせるほどの美しさ。ただ立っているだけなのだ。彼は、ただそこに立っているだけ。それだけでこちらにすべてが伝わってくる。エドガーという少年が永遠の命を生きていることが、バンパネラという人智を超えた存在であることが。物語の序盤、まだ人間だったエドガーは望まぬ形でバンパネラになってしまう。そして時は進み、同じくバンパネラとなったシーラやメアリーベルとともに、ブラックプールにあるホテルの階段から降りてくる。その立ち姿。エドガーがもはや人間ではなくなってしまったことを、ただその立ち姿だけで伝える明日海りおの力量。あの作品のハイライトはあの場面にあったと言っても過言ではないかもしれない。再演の機会に恵まれることが多かった明日海りおという男役にあって、彼の代表作はこの『ポーの一族』ではないだろうか。あの作品を観て、私の人生はまるっきり変わってしまったのだ。

 

 明日海りおの特徴であるこの表現力を存分に発揮していたのが、先日の『青い薔薇の精』大劇場千秋楽の後に行われた『明日海りおサヨナラショー』である。私は映画館でのライブ中継を観ていたのだが、号泣してしまった。凄まじいの一言だった。プロローグから怒涛のメドレーが続く構成で、大劇場主演12作という彼の歴史を感じさせた。このメドレーでも、明日海りおは一切手を抜くことがなかった。「表現者明日海りお」の神髄が、そこにあった。『エリザベート』に始まり、『カリスタの海に抱かれて』、『新源氏物語』、『金色の砂漠』、『MESSIAH』、『CASANOVA』、『ポーの一族』、『ファンタジア』、『エキサイター』といった、花組トップスターとしての歴史を振り返る名曲の数々。しかしこのメドレーで特筆すべきは、明日海りおが曲ごとにそのキャラクターを演じていた、ということである。『カリスタ』ではシャルルとして、『金色』ではギィとして、『MESSIAH』では天草四郎として、『CASANOVA』ではカサノバとして、『ポー』ではエドガーとして。彼が今誰を演じているかが、私自身の記憶を呼び起こし、すぐに分かるのだ。明日海りおは、入り切っていた。舞台の転換はもちろん、衣装も、メイクも変えることなく、ただ立っているだけで、今彼がどれほどの深さで役に入っているかが分かる。すごいとしか言えないパフォーマンスを、涼しい顔で見せるのだから、こちらとしては涙で応えるしかない。こんなにもすばらしい役者を、宝塚の舞台で見ることができなくなる。そのことが本当に寂しい。11月24日の退団まで、明日海りおは進み続けるだろう。

 最後に。同じ時代に生まれ、明日海りおという男役として活躍するあなたを観られたこと。こんなに幸せなことはありません。本当にありがとうございました。