感情の揺れ方

それでも笑っていたい

劇評:ミュージカル『笑う男』

 貴族と貧民。公爵と道化。楽園と地獄。現実的な男と夢見がちな男。トサカ頭とぶたっ鼻。あるいは、笑う男と…。

 ヴィクトル・ユゴー原作、脚本ロバート・ヨハンソン、作曲フランク・ワイルドホーン、演出上田一豪によるこの物語を貫くのは、調和としての円、もしくは輪といった、円形や丸形のモチーフだ。それもただの綺麗な丸ではなく、陰陽図のように相対する二つの概念が寄り添いあうことで生まれる調和が描かれている。舞台を彩るセットには円形のモチーフが多用され、夜空には満月が浮かんでいる。その対立と調和は最終的に生と死、生きるものと死ぬものという形にまで引き上げられ、調和は輪廻という円環へ行きつく。しかし貴族であろうとも貧民であろうとも、本当に幸せになることは許されない。救いは、誰のもとにも訪れない。この物語が描くのは、ヴィクトル・ユゴーがその生涯を通じて書き残そうとした「貧しい人たちの心からの救済」と「それが達成されない現実」である。

 主人公のグウィンプレンは幼少期、コンプラチコ(子ども買い)に口を裂かれ見世物にされた。ある日、一行の船から振り落とされてあてもなく雪原をさまよっていると、すでに死んでいる女性に抱かれた赤ん坊、デアに出会う。二人は見世物の興行師ウルシュスの小屋に行きつき、彼らは生活を共にするようになる。そして十数年が経ち、青年になったグウィンプレンは「笑う男」として話題になり、盲目のデアと自らの生い立ちを演じる興行で人気を博すようになった二人は互いを信頼し、愛し合うようになる。物語の序盤から第一幕を通して描かれるのは、先述したような金持ちと貧乏人、楽園と地獄といった分かりやすい対立とそれに苦しむ弱き者たちの生活と現実だ。それは主人公のグウィンプレンとウルシュスを通して表現される。ただ、この二人の間にも対立が存在する。グウィンプレンは自らの運命を変え、人並みの幸せを手に入れようともがく。その一方でウルシュスはどこまでも現実主義だ。

この世界 残酷だ 生き延びる事さえ難しい世界 周りは屍

努力は実らない 稼いだ金は絞り取られる 腐った貴族に

生き抜くためには誰かを蹴落とすしかないぞ

自分以外は敵だ いいか?

            ウルシュス『残酷な世界』

 このグウィンプレンとウルシュスとの対立は、より一層克明なものになる。ジョシアナ公爵という貴族の登場によって。ジョシアナはある日、婚約者のデヴィット・デイリー・ムーア卿に連れられてウルシュスたちの見世物小屋を訪れる。醜くも魅惑的なグウィンプレンに心を惹かれたジョシアナは、すぐに自分のもとへグウィンプレンを呼びつけ彼を誘惑する。ここでも、何も手に入らないグウィンプレンたちと何でもすぐ自分の物になると思っているジョシアナたち貴族とが対比的に描かれている。その一方で、ジョシアナとグウィンプレン、つまり貴族と貧民という対立項が互いに向き合う場面でジョシアナは印象的な丸く大きい天蓋付きのカウチソファに座っており、ここでも人工的な円形のモチーフが用いられている。グウィンプレンがジョシアナの好意に戸惑っている間に、見世物小屋では一人になったデアがデヴィット卿に襲われそうになるが、ウルシュスたちがなんとかデヴィット卿を追い払う。何も知らずに帰ってきたグウィンプレンをウルシュスは叱責し、ここで二人の間にある溝は決定的なものになってしまう。

ウルシュス『感謝しろその醜い口に それでお前は生き残れた

      欲張るなお前は化け物だ 幸せなど手に入らない』

ウィンプレン『あなたは僕を分かってない』

ウルシュス『妹よりお前は盲目 欲望と金に目が眩んでる』

ウィンプレン『あなたと僕は違う』

ウルシュス『受け入れろ 運命を』

ウィンプレン『僕なら変えられる 手に入れる幸せ』

ウルシュス『その権利は お前にはない』

          グウィンプレン&ウルシュス『幸せになる権利』

 襲われたショックに打ちひしがれるデアに寄り添うグウィンプレンのもとに突然官憲が現れ、彼を牢獄へと連れ去っていく。そこにはかつてグウィンプレンの口を裂いたコンプラチコと、「流れ着いた瓶を開封する係」に任命されたフェドロが待っていた。戸惑うグウィンプレンに、フェドロの口から衝撃の事実が明かされる。グウィンプレンが実はクランチャリー公爵の嫡男であり、長らく空位になっていた貴族院議席を受け継ぐべき人間であるということが。第一幕の最終版で、貧民の代表だったグウィンプレンが貴族側の人間になってしまうのだ。それも努力など関係ない、ただ「貴族の家に偶然生まれた」という理由だけで。貴族という身分制度などには何の根拠も必然性もないというユゴーの信念めいた主張がここで描かれている。第一幕は、グウィンプレンが自分は貴族であるということを受け入れ、運命を変えるという決意を新たなものにしたところで幕が下りる。

 第二幕の冒頭、グウィンプレンは貴族としてベッドで眠っている。文字通り貴族に目覚めた彼はアン女王から正式にクランチャリー卿として認められ、貴族院議席を受け継ぐ手続きに入っていく。彼はもはや貧民でも道化でもない。人民の1パーセント、クランチャリー公爵だ。そこに陰陽図的な調和は存在しない。彼が眠っていたベッドは大きく、豪奢で人工的な正方形だ。対してウルシュスたちには「グウィンプレン」は死んだと伝えられる。フェドロにすれば、「嘘」はついていない。もうグウィンプレンはいないのだから。嘆き悲しむウルシュスとフリークたち。それまで見世物小屋の場面に人工的な円形のモチーフは使用されていなかったが、夜空には満月が浮かんでいる。ここでも、「貴族と貧民」、そして「人工物と自然」という対比、対比から生まれる調和が描かれている。

 宮殿ではジョシアナが再びグウィンプレンを誘惑するが、グウィンプレンが真のクランチャリー卿であることを知るとジョシアナはグウィンプレンを拒絶する。彼女が求めていたのはあくまでも「笑う男」、道化としてのグウィンプレンであり、クランチャリー卿ではないのだ。ただ偶然の産物である「貴族」や「貧民」とったものに固執する人間に嫌気がさしたグウィンプレンは闘いを挑んできたデヴィット卿─いまやただの妾の子─を打ち負かし、議会へと向かう準備に入る。

 見世物小屋では、グウィンプレンがいないことを知らないデアを傷つけまいと一座はいつものように興行を始めようとするが、聡明なデアはすべてに気づいてしまう。事実を聞かされたデアはショックのあまり眠りにつき、ウルシュスはデアを膝に寝かせながらこの世界を嘆く。一連の場面に、調和を感じさせるモチーフはない。決闘ではレイピアが使われ、見世物小屋のセットは一貫して四角いものが多く、人工的ではない自然な傷みや暖かみを感じさせる作りだ。

 議会の出席するための衣装に着替えるグウィンプレンは、自分の本当の両親の肖像画を眺めることになる。そこから自らの生まれ、生い立ちを振り返るのだが、その真四角の肖像画は薄く透ける紗の向こうになんとなく見られるだけで、直接見ることは出来ない。そしてかつてグウィンプレンが眠っていたゆりかごには丸く天蓋がつけられている。グウィンプレンは再び「笑う男」として議会に出る決心をする。『世界を変える」という決意を胸に。「私たちが1パーセントだ」とうそぶく貴族たちを前に、クランチャリー卿、いやグウィンプレンは、傷つけられた自分の肉体こそが特権階級によって幸福な生活を奪われた人間の姿に他ならないと言い放ち、「俺こそが笑う男だ」と高らかに宣言する。

笑いたけりゃ笑うがいい俺を その前に鏡を覗き込めよ

何よりも醜いものが見つかるぞ

最後に笑うのは俺だ 取り戻す俺の人生 すべて

                グウィンプレン『笑う男』

 グウィンプレンに嘲笑を浴びせる貴族たちをよそに、一部始終を眺めていたジョシアナだけが「私は本当に醜いものが何なのか見せられた」と彼に寄り添おうとするが、もはやグウィンプレンは相手にしない。デアが目を覚ましてくれるように祈るウルシュスたちのもとにグウィンプレンが帰還し、みなは沸き立つ。デアもグウィンプレンに気づくが、彼女は彼の腕の中で静かに、眠るように息を引き取ってしまう。そしてグウィンプレンも、彼女を抱えて水の中へ歩いていく。貴族と貧民との対立、調和の象徴であった夜空の満月は、今「生きる者と死ぬもの」との象徴に変化し、そして、消えて行く。最後まで誰も救うことのなかった調和としての円環は、死という輪廻に形を変え、私たちに問いかける。幸福とはなんだ?と。

 『ノートルダムの鐘』、『レ・ミゼラブル』などに代表されるユゴーの作品には通底するテーマがある。社会的な不正や貧困と戦う彼の理想主義がそれだ。なら、この現代において彼の作品を舞台で、それもミュージカルという形で上演する意義はなんだろうか。例えば「貴族と貧民」、あるいは見世物小屋といった18世紀のイギリスでは日常の風景だったのだろうこれらのトピックは、今の私たちに寄り添うものではない。格差と言い換えればもちろん現代的な問題としても捉えられるが、当時あった格差ほどフェイタルなものではないだろう。しかし、「傷ついた生」はいつ、誰にとってもフェイタルな問題として私たちに迫ってくる。特に今まさに「傷ついている」人たちには。

 気になったところは、ウルシュスというキャラクターの造形と、歌う場面の演出。

 まずウルシュスについてだが、彼はなんというか、どっちつかずの存在だ。もちろんウルシュスは貧民であって貴族ではないが、夢を見るグウィンプレンにはきつく当たることがあり、その一方で世界の醜さを知らないデアにはどこまでも優しい。適切な表現ではないかもしれないが、ウルシュスはルサンチマンを抱えているのだ。残酷で理不尽な世界と自分たちを犠牲にした楽園で笑う貴族への憎しみ、恨み。そして口を裂かれ世界の醜さを知りながらも夢を捨てないグウィンプレンへの愛憎入り混じった感情を持ち合わせている。現実を知りながらも夢を捨てないグウィンプレンと、盲目ゆえにいつまでも清廉なデアは、ウルシュスの二面性を如実に表している。だからこそ、いわばアンビバレントなウルシュスの行動が少し気にかかってしまった。

 そして歌う場面での演出についてだが、いかんせんワイルドホーンの楽曲に力があるせいか、各々のソロシーンが少し「ミュージカル」ではなくて「ショー」っぽくなってしまっているように感じた。特に第二幕後半の、グウィンプレンとデヴィット卿のソロが連続する場面や、グウィンプレンとジョシアナのソロが続く場面ではその傾向が顕著だった。これはやはりワイルドホーンの「歌い上げる」楽曲と、出演者の少なさが影響しているのではないだろうか。舞台に一人残った人物が歌うシーンは、やはりそれが連続してしまうと「ショー」っぽくなってしまう。

 さて、次に個々の出演者へ話を移そう。

 まず主役のグウィンプレンを演じた浦井健治は、近年『ブロードウェイと銃弾』や『王家の紋章』などに出演し、その地位を固めつつある。今回のグウィンプレン役も、ともすれば辛気臭く、作品全体がジメついてしまうかもしれない難役を明るく演じ切っていた。歌唱力はすこし不安定なところがあったように思うが、舞台での身のこなしは軽やかでキレがあり、これからも期待したい。

 ウルシュスを演じていたのはベテランの山口祐一郎だが、なんというかこう、独特な役作りだった。昨年『モーツァルト!!』を観劇した時も思ったのだが、全体的にクセが強い。演技も歌い方も、観る側が少し身構えてしまうような雰囲気になっている。個人的な意見にはなるが、やり過ぎというか、そういう印象。

 そしてジョシアナを演じていたのは朝夏まなと宝塚歌劇団宙組の元トップスターで、退団後も精力的にミュージカルなどの舞台作品に出演している。退団後の舞台を観劇するのはこれが初めてだったが、やはりずば抜けた美貌が鮮烈な印象を残している。すらっとした手足は美しく、宝塚時代から定評のあった演技は女性に戻っても健在だった。歌はやや不安定なところもあったが、今回の公演でのMVPは彼女ではないだろうか。

 脇を固める俳優陣も非常に実力があった。デヴィット卿を演じた宮原浩暢は本当にどうしようもない貴族を的確に表現していたし、フェドロ役の石川禅は作品全体をきゅっとしまったものにしていたように思う。そしてデアを支える役回りだった清水彩花と宇月颯はさすがの一言。清水彩花の安定した歌唱力と、宇月颯のキレのあるダンス。宇月颯は宝塚を退団して以降初めての本格的なミュージカルということでパフォーマンスはどう変化しているかなと思ったが、いらぬ心配だった。朝夏まなともそうだが、あんなにカッコいい男役だったのにすぐ女性を的確に演じられるというのは頭がさがる。

 最後に、衛藤美彩に言及しておかなければならないと思う。今回の公演はデアがダブルキャストで、私が観たのは衛藤美彩がデアを演じた公演だった。率直に言わせてもらえば、すべてがつたない。アイドルを卒業して以降、今回が初めてのミュージカル出演だということを差し引いても、演技、歌唱、所作のすべてがつたなかった。発声はミュージカルのそれではないし、声量も抑揚もこの規模のミュージカルでヒロインを演じる域には達していなかったように思う。2018年にチェーホフの『三人姉妹』でオリガを演じたということで演技はどうかと期待したが、それもまだ粗削りだ。そもそも、デアという役がかなりの難役なのだ。盲目の美しい少女というだけでなく、見世物小屋という醜い世界で育ったにも関わらず盲目ゆえに世界の醜さを見ることがない清廉な少女。少し前までアイドルだった俳優には荷が勝ちすぎているだろう。しかし、それが救いと言うべきか、そのつたなさが良い方向に作用していたとも言える。たどたどしい喋り方や、か細い歌唱が、「デア」という少女の持つ圧倒的なイノセンスの表現に迫っていたのだ。これ以上はミュージカルにおける歌唱力と、歌と演技の両立といった演技論の込み入った領域に入り込んでしまうので言及は避けるが、何から何までダメだったと切り捨てたくはない。奇跡的な状態ではあるが。そして何より、相手が悪いのだ。朝夏まなとは宝塚のトップスター、宇月颯は15年宝塚で活躍し、清水彩花は8歳の頃に『アニー』でデビューし『レ・ミゼラブル』のコゼット役を2回務めている。こんなプロフェッショナルの女性が集まる中に彼女を混ぜ込んだら、浮いてしまうに決まっている。最も比べられるであろうダブルキャストの夢咲ねねも宝塚のトップ娘役だ。なんというか、衛藤美彩を批判するべきではないと強く思う。もう言ってしまうと、やらせた方が悪いのだ。彼女はまだプロフェッショナルではない。そんなこと作品には関係ないのだが、そうと分かっていても強く批判は出来ない。一番苦しんでいるのは本人のはずだ。

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