感情の揺れ方

それでも笑っていたい

劇評:『唐版 風の又三郎』

 3月の上旬に、森ノ宮ピロティホールで『唐版 風の又三郎』を観劇した。しかし、私にはこの作品を評価することが出来ない。それは例えばアマゾンで買った商品に星をひとつだけつけるとか、そういうことではない。文字通り評価が出来ないのだ。何と言えば良いのか、購入していない商品に星を付けるという行為は誠実ではない。私はこの作品を「観られていない」。というのも、私が観た公演から演出が変更されたからである。開場時間に合わせてピロティホールに到着した私の目に映ったのは、なぜか閉じられたままの入場口と会場を待つ人たちによる長蛇の列だった。私の経験上、開演が押すことはそれほど珍しくないものの、開場が押すことはほとんどなかった。舞台にはさまざまな準備があるけれど、それは舞台上の話であって観客が席に着くことには関係のないことが多い。なのにこれはどういうことだろうと思いながら待ちぼうけていると、アナウンスがあった。

「昨夜の公演で主演の窪田正孝がケガをして演出に大幅な変更があり、開演時間は不明。希望する方にはチケットの払い戻しを行う」

 なるほどそれで、と納得がいった。演出を大幅に変更するほどのケガ、そして払い戻しの対応をする。これらが意味するのは、「作品が全くの別物になります」ということに他ならない。おそらく私が今から観る『唐版 風の又三郎』は演出家の想定する『唐版 風の又三郎』ではない。だからこその払い戻し対応だ。さてどうしたものかなと思ったが、せっかく電車に乗ってここまで来たのだからという気持ちの方が勝った。万全の窪田正孝を見られないのは残念だが、トラブルをリカバリーすることになるであろう柚希礼音に期待をして、開場を、そして開演を待った。

 最終的には1時間半ほど押して幕は上がった。謎の青年織部を演じる窪田正孝は最初から最後まで車いすに乗って演技をしていた。本来の演出を知らないのでなんとも言えないが、恐らくここは大きな変更点だろう。それに対応してエリカを演じる柚希礼音にかかる比重は重くなっていたはずだ。しかしそこは柚希礼音。宝塚のトップスターを6年間勤めあげたその実力は紛れもなく本物だった。彼女がいなければ、彼女でなければ、この公演は大阪の地で中止になっていただろう。どうにか無事に幕は閉じたが、カーテンコールに応える窪田正孝の目には涙が浮かんでいた。

 何度も言うように、私はこの作品を評価出来ない。観ていないものに評価を投げつけるのは、不誠実だ。唐十郎の作品も、金守珍の演出も、私はこの作品が初めてだった。しかしあえて言うなら、私はもう「アングラ演劇」を観ることはないと思う。これはやはり、「私の好みではない」という一言に尽きる。”Not for me”というやつだ。あらすじを紹介するにも、粗い筋すら掴めないし、登場人物だってよく分からない。みなが口を揃える「美しいセリフまわし」も、確かに耳障りは良いが、私にとっては綺麗なだけの包み紙だ。文字というものはどこまでいっても読まれないし、同じように言葉というものは伝わらない。それらがなんらかのメディアである以上、「言葉は黙秘する」ものなのだ。表現はそこを超えていかなければならない。「エロ」も「グロ」も、もはや「アングラ」ではない。「アンダーグラウンド」がなくなった現代において、「アングラ」はどこへ向かうのか。「アングラ」をどこへ導くのか。「分からなくて良いのだ、誤読を歓迎する」だけではどうしようもないことが、ある。

 いつか万全の窪田正孝を観たい。心に残ったのはそればかりだ。

 

 

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